難民の声:ヨルダン川西岸地区、DHEISHEHキャンプ

ヨルダン、レバノン、シリアアラブ共和国、ヨルダン川西岸及びガザ地区で設定されたキャンプに130万人のパレスチナ難民たちは、住み続けている。西岸地区では、60万人以上いる難民のおよそ4分の3が町や村に住み、残りの4分の1の人々は、Mamoudのように、19あるキャンプの1つに住んでいる。Mamoudが住んでいるDheishehキャンプは、1949年に設営されたもので、ベツレヘム自治のちょうど境界内に位置している。人口は1万人で、とても窮屈な生活をしている。
イスラエル軍によって西岸地区に課せられた外出禁止令と封鎖はキャンプに深刻な影響を与えている。住民の大部分がイスラエル国内の仕事で得る収入にたよって生活しているからだ。その結果、失業率が上昇し、キャンプの社会経済状況はさらに悪化した。Mamoudは、RIに次のように語った。彼はかつてイスラエルで働き、1日に60~100Shekels(13~23USドル)稼いでいた。キャンプに住む他の4000人も、同じように働いていた。今では境界を越えられるのはわずか100人ほど。彼らは同様の仕事で20Shekels(1USドル)でも厭わない。彼は100人のうちの1人ではない。それからMamoudは、働くために不法にイスラエルに入国した若者について教えてくれた。彼は逮捕され、イスラエル兵に足を折られた。
 10人の子どもの父親として、Mamoudは様々なアクセスの問題を心配している。概してキャンプのインフラは不十分で社会経済状況は貧しい。水へのアクセスは問題だ。Mamoudは言う。「イスラエルは十分な水を供給しない。」彼は、行動を制限されていることがヘルスケアへのアクセスにどのように影響しているか述べた。キャンプ内の診療所では対応できず、治療を必要としている患者がエルサレムに行くことができない。医療のニーズについて話すことで、彼はある夜を思い出した。イスラエルのOperation Defensive Shieldの時で、キャンプ内を戦車が走行した。彼の隣人が撃たれ、兄弟が逮捕され、妻の腕時計が盗まれ、12才の息子が殴られた時である。
 国連難民救済機関(UNRWA)のキャンプにおける責任は、サービスの提供とキャンプの設備管理に限られている。UNRWAはキャンプごとにキャンプサービスオフィスを設けており、そこで住民が彼らの登録を更新したり、キャンプサービスオフィサーにUNRWAのサービスに関して問題提起したりする。彼らの最大限の努力にもかかわらず、Mamoudは言った。「十分な食料がない。」彼は続けた。「けれども、パンと塩しかなくても、人々はここに住み続けるだろう。」
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