インドネシア状況レポート 

情報源:Presbyterian Disaster Assistance(PDA)
※米国ケンタッキー州に本部を置くキリスト教系支援団体
日付:2010/11/4
2010年11月3日ムラピ山が再び噴火し、巨大な灰の雲が空に噴出した。インドネシアのジャワ中部地域で10月25日に始まったムラピ山の噴火では約7万人の人々が避難していた。
複数の国連機関の調査によると、国内避難者(IPDS)は75のキャンプに広がり、そのうちの9つが山から25㎞以内にあるジョグジャカルタ市内にある。5万人以上の人々が暮らしている残りのキャンプはジャワ中部から遠く離れたところにある。
全般的に見れば、政府の火山早期警戒システムはうまく機能しているように思われると、国連人道問題調整事務所(OCHA)の指揮官代理のKnarik Kamalyanは言った。
建物への被害は少なく、病院や食料マーケットは機能していると調査では示されたが、つい最近の噴火によって新たに38名の死者が記録され、28名のけが人が確認された。
PDAが支援しているACT AllianceのパートナーであるYakkum Emergency Unit(YEU)は、噴火被害にあった人々への医療支援を提供している。YEUと他のACT Allianceのパートナーはムラピ山の更なる変化をモニターして、人々が噴火の熱、ほこり、溶岩などから逃れられる避難所を建設している。
地震と津波
嵐と高波はいまだに津波に対する救援の妨げとなっている。PDAのパートナーでACT Allianceの共同メンバーであるChurch World Service(CWS)はパダンから津波に襲われたパガイ島まで13時間かけてボートに乗っていったが、それは普段の2倍以上の時間がかかるものだった。CWSは南パガイと北パガイの最も被害の大きい地域に最初に到着した組織だった。
先週インドネシアのムンタワイ諸島を危機が襲ってきた時には、十代の若者達が救援にやってきた。
最初の波はひざの高さだった。次に来た波と比べればそれは水の滴り程度のものだった。2番目の波は1.5mに急上昇した。3番目の波は3~4mの間の高さの巨大な壁となり、少なくとも450人の死者を出した。
父親が「津波だ」と叫んだ時、高校教師であるYeniはどうしたらいいかわかっていた。2008年、彼女はインドネシアのムンタワイ諸島のシカカップという町でどのように災害に備えるかを生徒達に教えていた。6ヶ月間にわたり、もし最悪の事態が起こった時必要となるであろう応急処置と捜索・救援技術の訓練を彼女は行った。地震と津波が起きたとき、ムンタワイのプロテスタントキリスト教教会中学校の生徒達は、周囲の混沌と恐怖を気に留めることなく、彼女の教えたことをそのまま実行に移した。
津波の翌日、生徒のHerlina, Deformalis, Parluhutanは管理事務所の指揮所に行き、Yeniと仲間のBerniとの間で調整を行った。三人の生徒達は住民を助けて家から瓦礫を取り除き、一時避難所へ移る手助けをした。
次の日、三人の生徒達はパダン市から来ていた捜索・救援隊を手伝って人々を町から高い所へ避難させた。翌日早くにはBeubukku村から住民を移動させた。それからも人々をより高い場所や避難所へ連れて行く活動をずっとしている。
PDAの地元のパートナーであるACT AllianceのメンバーのYayasan Tanggul Bencana di Indonesia(YTBI)によって行われたプログラムへの称賛の声が、はるばるパキスタンからも届いた。イスラマバードのLaksmita Novieraは、ムンタワイ学校トレーニングプログラムの元プログラムリーダーである。彼女は生徒達が活動しているところを写した写真を見たとき、「彼らに何が起きたのかを想像したら身震いがします。私達の活動が本当に役に立ったことを神に感謝します。」と言った。
PDAの地元のパートナーやACT Allianceのメンバーによる他の救援活動としては、ムンタワイ諸島への移動医療サービスの提供や、救急医や看護士の配置、地域の保健所や教会の避難、食料のパック、ベビーフードのパック、プラスチックシート、毛布、プラスチック合羽、生理用品や下着などの配給などがある。赤ちゃんへの愛情キットというCWSからの物資も配った。
これらの情報はYTBI, IRIN, ACT Alliance, CWSから得たものである。
原文URL:reliefweb.int