商売の準備をする震源地近くの町

商売の準備をする震源地近くの町
情報源:The New York Timesより抜粋
日付:2010/02/01
かつて町の中央広場であった場所は、今は仮設テントがたくさん建ってごちゃごちゃした地域となって息を吹き返し、商業が活況を呈していた。新しい家は拾ってきた木材や板金で建てられているのだが、靴磨き、美容院、炭や石鹸、CasinoブランドのチョコレートやComme Il Fautというタバコなどは高値で手にいれることができた。
Merlise Charles(36)はほとんど利益がないのになぜ一日中大なべでつぶしたサツマイモを一生懸命売っているかを説明した。「わたしは何かをしている必要がある。」と。
この広場での仕事は、利益を上げるためというより、復興に対する渇望からのようにみえる。キャンプに秩序をもたらす手助けをするために選ばれた10人からなる委員会によって作られたリストによると、ここには500家族以上の約2,500人の人々が地震の後に移ってきていた。
この広場はかつては露天や倉庫が立ち並ぶ市場だった。しかし2002年、前大統領のJean-Bertrand-Aristideが公園へ行く道路を作るためここを取り壊すように命じたと、ここにいる人は語った。それは国民の決定によるものではなかった。市場はすぐに撤去されたが公園の計画は何年も放置されたままである。
今やこの広場は村と広場と市場が一体となっている。寄付されたテントが見られるだけでない。4人家族のために約8フィート四方の小さい掘っ立て小屋を2人の男が建てているのをCarmalite Henry(51)は見ていた。彼女は友人から借りた50ドルを彼らに払った。
Gerome Julieは4人の子供の母親だが、柱を立てる穴を掘り、釘や木材や板金に60ドルを払って自分の小さな家を建てた。防水はしてあるのかと尋ねたら、「わからない。まだ雨が降っていないから。」と彼女は答えた。彼女はトイレットペーパーや洗濯洗剤、石鹸など地震の前に持っていた全商品を売っていた。各々に付き25セントの儲けがあると彼女は言った。
くじ等も復活しつつある。広場には2,3ペニーから始められるチケットを買える場所が少なくとも3ヵ所あった。ある1人のくじ売りは、Ronald Center Bankという目立つ名をスクラップの金属板に書いて縁石に立てかけていたが、商売は振るわなかった。「ここにはお金がない。でも人々はくじを信じている。」と経営者のRonald St.Hubetは言った。
この広場は人道的な援助には少し邪魔になっているようだとキャンプの委員会の事務局員であるFednel Sainsulmeは言った。二人の警官を含む委員会が夜にはパトロールをし、市長に状況報告をして、寄付された物資を整然と配給するよう交渉しようとしていた。
Hays Pure Water For Allという非営利団体のメンバーが、水を消毒するための塩素溶液に塩水を変換する簡単なフィルターを持ってきた時、委員会のメンバーはキャップ一杯ずつの塩素を配るボランティアをした。他のキャンプでも委員会を選ぶようになった。
地震の前、Sainsulme氏は牧師であり、写真家、先生でもあった。彼の仕事は簡単には再開できない。彼がかつて教えていた9教室あった学校はレオガンのほかの学校と同様に壊れてしまった。「私は今ちょうど神を待っているところだ。」と彼は言った。