スリランカ支援」カテゴリーアーカイブ

スリランカ東部訪問記

スリランカではこの1ヶ月間で、紛争により200人を超える人が殺害されており、2002年の停戦合意が破棄され内戦が再開するのではないかという懸念が高まっています。5月11日には北西部で、「タミル・ イーラム解放のトラ(LTTE)」の船がスリランカ海軍に突っ込み爆発し、停戦合意以来、最大の衝突となりました。スリランカ問題担当の明石康・日本政府代表は、この衝突が起きたことについて「状況は非常に切迫しており、全面的な戦争が再開する危険がある」と指摘しています。
CODEはスリランカで現在3つの津波復興支援プロジェクトを行っています。その中の幼稚園・保育園再建支援のカウンターパートである、ティラクさんからのメールが来ましたので、報告します。ティラクさんは治安が悪化しているスリランカの東部に、4月27日から30日まで入りました。以下に添付しているティラクさんの報告の邦訳から、日本では伝わりにくい緊迫した現地の状況、そしてティラクさんの平和を願う思いがうかがえます。長文になりますが、ぜひご覧下さい。
-スリランカ東部訪問記- 
コロンボの軍総司令部での爆発の後、状況はすぐに変わりました。私たちのスケジュールは、幼稚園・保育園再建プロジェクトを指揮するためにスリランカ東部のアカラパットゥとアンパラ地区へ行くことです。
私は27日の午後2時半にPettahからBandarawelaバスに乗りましたRathanapuraに近いKuruvitaのスリランカ軍のチェックポイントに5時半に着きました。軍と警察は荷物を慎重にチェックします。ムスリムとタミル人にはより多くの質問をします。彼らはいらいらした雰囲気でした。ある巡査はゆっくりと話し、私に「トラブルの心配はしないでいい。何をすべきかって?我々は義務を遂行しているのだ。面倒をかけて申し訳ない」と告げた。私はオーケーとだけ言った。
バスに乗り込むと、ある人が大声で何か言い始めた。35歳より下の若い男で、しっかりした体つきをして感じの良い青年だった。「私たちシンハラの若者は北東地域で死にたくはない。罪のない若者はただ仕事のために軍に入るだけなのだ。国家に特別な思い入れがあるわけではない。どうしてLTTEは分かってくれないのか。私たちはLTTEと調停を結びたい。」別の人が会話を続けようとしたが、バスの乗務員は彼自身の理由で話題を変えた。
Bandarawelaの町には8時半に着いた。私は三輪タクシーに乗ってLio Marga Asramに言った。センターの代表聖職者であるF氏に会い、早朝にアカラパットゥへ行く調整をした。
F氏はここ数日熱があった。車を運転する人もいなかった。だから三輪タクシーを使った。私は彼に、疲れたら車を拾うよと言った。センターの代表であるD夫人は旅をとても怖がっていたが、彼女も私たちに同行した。午前8時にBandarawelaを出発し、Beragalaジャンクションに着き、MonaragalaとWellawayaを通りアカラパットゥに抜けた。途上、軍と警察のチェックポイントを問題なく通った。Monaragala警察のチェックポイントでは一人の巡査が遠くから質問した。彼はなぜアカラパットゥに行くのか訪ねた。F氏は宗教的活動のために行くと答えた。巡査はF氏のIDをチェックし、通過を認めた。
Wellawayaの市場で私たちは新鮮な野菜と果物を買った。アカラパットゥの子どもたちの寄宿舎にあげるものだ。40人以上の津波で被災した子どもたちが教会の助けで暮らしている。この地域では生産不足のため野菜の価格がとても高い。アカラパットゥには1時半に着いた。
アカラパットゥ市内に入ると、そこは死んだ町のようだった。すべての店は閉まっていて、道に人影はなかった。特別任務の兵士だけが市の警備のためあちこち動き回っていた。私用のため石鹸を買いたかったが見つけるのは容易ではなかった。運転手がこの地域について説明した。アカラパットゥはスリランカの他のどの場所とも違う。金曜日にムスリムたちはお祈りのため、12時から2時までの2時間店を閉める。私たちがアカラパットゥに来たのは金曜日で、すべてのムスリムにとって神聖な日であった。それで、彼らは一日中町を閉めているのだった。彼らは、タミル人が店を開けることも許していなかった。営業していたのはバナナと果物の店だけだった。石鹸が欲しいなら、夕方には小さな店が開くと運転手は私に言った。
それから、私たちはアカラパットゥの教会に到着した。教会の人々は私たちに食事を出してくれた。少し休憩して、アカラパットゥ市から5㌔のところにある幼稚園の建設現場を見に行った。
人に会いに行くとなると、ムスリムとタミルの民族対立にとても緊張が走る。東部にあるOluvil大学の副学長の銃撃事件のことを耳にした。
アカラパットゥの津波キャンプはまだ続いている。人々はゆっくりと、海に近いもといた場所に移動している。ほとんどが漁師である。150メートルのバッファゾーンの法律によって、住宅を建てることには使えなくなった土地もある。教会は、アカラパットゥ都市部に近い土地を被災者に提供した。教会は幼稚園・保育園建設の土地も提供してくれた。しかし人々は、もと住んでいた場所で子どもをそばに置いておきたがる。他の地域では、彼らはムスリムとタミルの対立をとても恐れている。アカラパットゥ都市部に近いところで生活を始めたなら、衝突が起きたときに子どもにとって危険である。ある漁師は海に近い区画を幼稚園建設に提供を申し出た。しかし広さが十分でなかった。私たちは人々と話し合い、最終的に早く他の土地を選ぶことを決めた。
29日に私はアンパラとカタンクディ地区を訪れることにした。私たちのアンパラの代表にコンタクトはとってあった。彼は私に、状況が悪くなっていると伝えた。彼は私がアカラパットゥからアンパラやカタンクディへ移ることを許さなかった。地雷と銃撃のギャングがその地域を取り巻いている。私はコロンボへ戻ることに決めた。
F氏はアカラパットゥとBeragala間の道はコロンボへの夜行バスでの安全なルートだと私に伝え、席を取ってくれた。そして彼は私をPotuvilとArugambeの海辺に招待した。そこは東南アジアでもっとも美しい浜辺で、13㌔の海岸線がある。津波後、その場所は災害資本プログラムのもとでビジネスマンたちのために発展している。小さな店のオーナーたちと津波の被災者はこのプログラムに抵抗している。しかし政府は金のためにこれを続けたがっているのだ。それから、私はArugambeを訪問することに賛成した。運転手ともう一人が私たちに同行した。アカラパットゥを午前10時に出て、Sinnamotuwar、Motuwar、Kalawanchikudi、Potuvilを経由した。私たちは4つか5つのSTFキャンプを通過した。各所で私たちは誰か、どこに行くのか、なぜそこに行くのかと聞かれた。F氏は宗教者のIDを見せて簡単な答をした。彼はいつも、アカラパットゥ教会から来てPotuvil教会へ、宗教的な理由で行くのだと答えた。彼らは宗教者IDに敬意を払っており、車や私たちをチェックしなかった。Arugambeに着いたのは午前11時半で、午後1時半まで海水浴を楽しんだ。途上で、軽い昼食をとり、アカラパットゥには4時に着いた。教会で休憩した。F氏が三輪タクシーで私をバスまで送ってくれた。
コロンボ・プライベート・バスには午後5時に乗り込んだ。乗客を乗せるのに数分かかった。バスは5時半にアカラパットゥを出発した。途中でいくつかのチェックポイントがあり、いくつもの場所でバスを降りた。IDと荷物をチェックするのに20分ほどかかった。コロンボに入る前、Kuravita警察のチェックポイントがあった。午前3時頃だった。バスを全てチェックし終わるのに1時間ほどかかった。4時半にコロンボに着き、大きな問題もなく家に着いたのは4月30日の午前5時半だった。
これは私にとって大きな経験になった。東の州を何回か訪れたが、初めてタミルとムスリムの人々が、いつでも火を付けるほど互いを不審に思っているという状況を経験した。ムスリムもタミルも同じタミル語を話す。しかし、宗教と文化の違いはとても大きい。シンハラとタミルは似た文化を持ち宗教も類似しているが言語が違うために多くの差異を生み、ついには酷い殺し合いにまで発展した。平和を構築する市民とソーシャル・ワーカーは、スリランカのより良い未来のため社会を再統一する際のきわめて重要な役割となるだろう。 ティラク

2004.12.26 TSUNAMI 一年を終えて No. 4

関係者のみなさま、一昨年12月26日にTSUNAMI災害被災国の一つであるスリランカ
において、現地カウンターパートナーであるスリランカ・YMCAとの連携で進めてい
る防災教育プロジェクトには、新たに強力なパートナーとして通称「ヒ
ロ」と呼んでいる滝田裕之さんが、昨年11月末から南部マータラで活動をしていま
す。彼は、国連ボランティア計画(UNV)のインターナショナル・ボランティアと
して、CODEがスリランカで行う防災教育のサポートをすることが任務となっていま
す。機関は今年の12月までです。私とはこれまでメールやスカイプなどでやりとり
をしていたのですが、昨年12月にスリランカ訪問をしたときに、はじめてお会いす
ることができました。
早速、彼がブログをつくられたので是非ご覧になって下さい。
(http://blog.goo.ne.jp/unv_lk/)。また、彼から日本の支援者のみなさまに
メッセージが届きましたので下記に紹介します。まだ着任して1ヶ月ほどですが、
すでに精力的に活動しておられ、これまでもアメリカやカンボジアなどで子どもの
ケアーをしてきておられることもあって、さすがにすばらしい視点と実践でもって
マータラの子どもたちと接しています。彼の考え方や実践の一端を覗かせて頂く
と、まさに「共育」という漢字がピッタリで、子どもが主役となった活動の大切さ
を意識されておられます。実は、彼は”マジシャン?”でもあるのですが、「相手を
楽しませるには、自分が楽しまなければ!」といいながら、ほんとに楽しそうに演
じてしる真顔は輝いています。
この1年間、度々このCODEのMLに彼が登場することになりますがよろしくお願い致
します。(事務局 村井雅清)    
———————–
 はじめまして。子供のための防災プロジェクトの国連ボランティアとして、昨年
末よりスリランカ南部マータラに駐在している滝田裕之と申します。
マータラは人口約4万人、2004年の津波でおよそ1500人が亡くなりました。あれか
ら一年以上が経ちますが、津波の残した傷跡は今でもあらゆる所で目にすることが
できます。この場所で現地YMCAのボランティアとともに、防災教育普及のため働い
ているのですが、その仕事は想像以上に難しいものです。防災教育という概念のな
いスリランカでは、まずボランティアに対して防災教育とは何かを教えなければな
りません。中には「津波はもう二度と来ないのに、こんな教育を行う意義があるの
か」と質問する人もいました。またYMCAが中心となっている活動のため、「これは
教育に名を借りた宗教活動なのではないか」と不安に思う親も多くいます。そのた
びに私は自分が国連ボランティアより派遣され、無神論者であること、また防災教
育は津波に限定されないことを説明しています。
私はスリランカに来る前、アラスカ州の児童福祉局、日本でいう児童相談所でソー
シャルワーカーとして働いていました。虐待を受けた子供たちと日々接してきたわ
けですが、その経験がどの程度この仕事に生かされるかは未知数です。ただ私はこ
の仕事における「知っているつもり」、「分かっているつもり」の怖さは知ってい
ます。私はスリランカ人にとって何がベストであるか分からないし、それは一年後
も変わらないと思います。それはスリランカ人自身が見つけるべきことであり、私
はそこへたどり着く過程を技術・精神面でサポートするのが仕事だと思っていま
す。
「どうしたらいい?」と聞いてくるボランティアに、「どうしたらいい?」と聞き
返す私は、スリランカ人にとって頼りない存在かもしれません。でもほとんどの場
合、彼らはその答えを持っています。つい最近までカレーと紅茶ぐらいしかスリラ
ンカについて知らなかった私より、ずっとこの国の人や文化を知り、それに合った
やり方を知っています。
“Be the change you wish to see in the world.” —ガンジー
(世界に起こればいいと思う、まさにその変化にあなた自身がなりなさい)
私はこの一年、様々な「変化」を目の当たりにすることになると思います。そし
て、「お前の助けはもう必要ない」とスリランカ人に言われたとき、初めて自分の
仕事の成功を知るのだと思います。
           
防災シンポジウム2006「安心できる学校、住まい、地域づくりを目指して」
日 時:2006年1月18日(水)9:30~17:00
場 所:よみうり神戸ホール
参加費:無料(要予約)
申込先:UNCRD防災計画兵庫事務所
    http://www.hyogo.uncrd.or.jp
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CODE海外災害援助市民センター

2004.12.26 TSUNAMI 一年を終えて No. 3

濱田のスリランカ・レポート2回目は、南部ヒッカドゥワに建
てられたアクララ幼稚園を訪れた時のものです。
—————–
アクララ幼稚園を管理している男性から、幼稚園の前にある池から
津波の何体もの遺体を引き上げた話しを聞いた。彼の目は何と
も言い知れない悲しさとやりきれなさで一杯であったように感
じた。どんな想いで遺体を引き上げたのだろうか。今後、この
池は海老の養殖用に使用されるという。ふと、KOBEの震災の時
を思い出す。瓦礫に埋もれ、助けたくても助けられなかった米
屋のご主人。路上に放置されていた多くの遺体。TSUNAMIから
1年が経とうとしている。KOBEから11年目に入ろうとしてい
る。今だ、津波の時の水位を示す跡が窓ガラスに残っている。こ
の跡が物語るように、私たちは、けして忘れてはいけないと思
う。KOBEを、そしてこの津波を。語り継いでいかなければいけ
ないと思う。これは私たち被災地の責任だと感じる。
土の防潮堤が造られていた。土台自体をコンクリートにしなければ次
ぎの津波には耐えられないであろうと村井さんが言っていた。
自然災害を事前に止めることは不可能であるが、災害後の被害
には必ず原因がある。その原因を取り除くことによって確実に
被害を軽減することが可能であると村井さんはいつも言ってい
る。この土の防潮堤がコンクリードに代わることはあるのだろう
か。行政が、国が行わないのであれば、地域住民が行政に働き
かけ、訴えかけなければ何も変わらないのではないだろうか。
地域住民の力で智恵をだしあって、強固な防潮堤を造りあげて
いかなければ、同じ過ちを繰り返してしまうだろう。
犠牲者の哀悼の意を表して「12月26日は働かないでおこう!」
と、漁師によるメッセージが貼ってあった。KOBEで「1月17日は働
かないでおこう!」と、KOBE市民が発信する日が来るだろう
か。朝5時46分の数分間だけでなく、その日、一日を、「語り
継ぎの日」として、「ボランティアの日」として、共育の時間を過
ごしてみたらよいと思う。
「ナショナル・ANTI・WAR・フロント」の方々の話を聞いて、私の中で
色々な事がリンクしていき、驚きと同時に、嬉しさで一杯になっ
た。リンクしていく、これは宗教に似ている。それぞれの宗教が
あり、教え(道)があるが、呼び名が違っても行きつく先は同
じである。つまり、働き方、働きかけがバラバラであっても、想
いは一緒であるという事。以前、村井さんが言っていた、「バ
ラバラでなお一緒」であるということ。これはボランティアのことを
言っているが、この「一緒」である部分が同じであるならば、
生き方、働き方、信じ方が違っていても、ゴールは同じであると
思う。「人間は幸せになるために生まれてきた」と言われるよ
うに、ゴールとは「幸せ」=「自由」=「平和」である。
防災シンポジウム2006「安心できる学校、住まい、地域づくりを
目指して」
日 時:2006年1月18日(水)9:30~17:00
場 所:よみうり神戸ホール
参加費:無料(要予約)
申込先:UNCRD防災計画兵庫事務所
    http://www.hyogo.uncrd.or.jp
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CODE海外災害援助市民センター

2004.12.26 TSUNAMI 一年を終えて

2004.12.26 TSUNAMI 一年を終えて
CODE海外災害援助市民センター
事務局長  村井雅清

monument.jpg
【写真】漁師の息子が作成した津波モニュメント(スリランカ・マータラ県ディクワラ 12月26日)

 12月22日から28日までの駆け足で、3度目のスリランカ訪問をしてきました。
当初の目的は、津波以後の支援プロジェクトの一つとして南部および東部で行っている防災教育の進捗状況をモニターすることだったのですが、そのことに加えてやはり「2004・12・26TSUNAMI」から一年という節目と重なったこともあって、悲しみを共有しつつ、またすばらしい出会いがあり、感動のひとときを過ごさせて頂きました。防災教育についてはまた別の機会に詳細に触れます。
ここでは、この間ご支援を下さったみなさまに、スリランカ南部マータラ県ディクワラ(DIKWELLA)漁村のコミィニティセンターで行われた「津波一年ミーティング(1st.commemoration of tsunami tragedy of Sli Lanka )」の模様をお伝えしたいと思います。会場内では、正面舞台になるところに横断幕が張られ、その右横に高さ2㍍余り、幅1・5㍍くらいのモニュメント(発砲スチロール製)が設置されていました。そのモニュメントの前には献灯、献花ができるように海岸の岩場を想定した台を作っています。左側にはこの地域の仏教儀式なのか、しんちゅう製の高さ3㍍くらいの仏具が立ててあり、そこにローソクを灯すというしかけになっています。
津波の犠牲者に対して、津波被害のあった午前9時20分から2分間の黙祷を捧げ、ま
ず主催者の漁業組合長や女性自立プロジェクトのリーダーなどの挨拶がありまし
た。続いてゲストとして地域で平和運動をしているNGO代表や地域での教育活動を
しているメンバーからの挨拶があり、さらには愛知県知多郡美浜町布土小学校で生
まれた防災ソング「お・は・し・も」の編曲マータラ版が、隣村の子どもたちに
よって披露され、最後にCODE海外災害援助市民センターを通しての被災地KOBEや日
本のみなさまからの支援の紹介がされました。このセレモニーには約100人の住民
が参列され、感動の二時間を現地の被災者や関係者と共有することができました。
会場では、遺族の方がずっとハンカチで涙を拭いておられる方や津波の直前に誕生
した一歳の赤ちゃんを抱いたお母さんや子どもたちも参加していました。
被災地KOBEの私たちとして最もこみ上げるものがあったのは、阪神・淡路大震災以
来KOBEの被災者が造り続けてきた「まけないぞう」というタオルを象の形につくっ
た壁掛けを、こちらのモニュメントに掛けさせて貰ったときです。あとで触れます
がこのモニュメントは作品としてもとてもすばらしいもので、「まけないぞう」を
ここに掛けるつもりはなかったのです。私のスピーチを終わったあとにどこに掛け
させて貰おうかと迷っていたときに、主催者がそのモニュメントの真ん中に飾って
くれた瞬間に、期せずして会場から大きな拍手が沸き起こったのです。阪神・淡路
大震災から11年、この間私たちは「痛みの共有」や「支えあいは国境を越える」と
いうメッセージを発信し続けてきました。この拍手が沸き起こった瞬間に、これら
のことが”つながったんだ!”と体感したのです。
最後に挨拶された女性リーダーは、次のように力強くいっておられました。「もう
私たちには、物やお金の支援はいらないのです。勇気を下さい!」と。この主催者
であるUFFC(漁業協同組合)は、日本のみなさまによる支援で組合をつくり再建活
動を続けていますが、組合内に漁民の女性支援プロジェクトも立ち上げています。
セレモニーが終わったあと、その彼女たちは私と同行した濱田久紀を取り囲むよう
にして、「私たちも防災教育をやりたい。まけないぞうのようなクラフトもつくり
たい。」と訴えていたのが、印象的でした。私のスピーチでも強調したのは、「私
たちが女性を支援するのは、女性が弱いからではありません。強いからです。一人
の女性を支援すれば、その女性は一人で二人、三人の子どもを助けます。さらに高
齢者も助けます。だから強いのです。」ということでした。あらためて女性の奥深
い力強さを感じた次第です。
最後に、このすばらしいモニュメントというのは、津波に立ち向かうように上半身
裸身になった男女が手をつなぎ、天に力強く突き上げている姿を炭で描いた作品な
のです。漁師の息子さんが描かれたそうですが、ほんとにすばらしいモニュメント
でした。「CODEという意味には、災害に立ち向かう市民たちという意味がありま
す。」と説明をさせて頂きました。スリランカで過ごした丁度一年目の12月26日、
こうして予期せぬ形で被災者と2時間弱を共有できたことは本当に感動でした。次
ぎに津波災害に遭っても、被害が少なくなるように「減災教育」を徹底したいと心
に誓い、会場を後にしました。コロンボへの岐路は、夜9時を過ぎてしまったこと
もあって、道中ではあちらこちらで追悼の式典がなされており、沿道や海岸には犠
牲者を追悼する灯りが献灯されていました。KOBEに帰ると11年目の「1月17日」が
待っているということをヒシヒシと実感した一日でした。とり急ぎ、スリランカ帰
国報告と致します。
今年1年大変お世話になりありがとうございました。来年もよろしくお願いしま
す。
2006.1月シンポジウム ”世界の1年を振り返って次の1年へ”
~スマトラ沖”TSUNAMI”から1年、阪神・淡路大震災の経験は生かされているか?~
日時:2006年1月8日(日) 午後2時~5時
場所:JICA兵庫 2階ブリーフィングルーム
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CODE海外災害援助市民センター

スリランカ幼稚園再建プロジェクト報告

スリランカ地図
 CODEはスリランカの津波被災地で、幼稚園再建支援に取り組んでいます。幼稚園再建支援の現地のパートナーであるTilakさんが、先日、スリランカ北部に位置するジャフナの幼稚園予定地を見学し、詳細なレポートを送ってきてくれましたので、その一部をここに紹介します。
 「地域的な障害のために我が国は危険な状態にあると、ジャフナ訪問の際に気が付いた。和平なくしては次世代の未来はない。スリランカ政府とLTTE(タミル民族解放の虎)の両者は未だ戦争の意識を維持しているが、私たちのような民間人にとって戦争はもうこりごりである。私たちはこれまで十分苦しんできた。私たち民間人は、障害に打ち勝つ人間と人間の関係(people-to-people relationship)を構築し、相互理解を深めることができると信じている。
ジャフナに再建する幼稚園は、子ども、女性、そして労働者にとって、外の世界を見る窓である。私とあなたにとっては、戦争がいかに人々に影響を与えたかを知るドアである。現在段階では、幼稚園建設は容易なことではないが、ジャフナを訪問したことは私にとって最初の第一歩となり、これから幼稚園再建を実現していきます。」
 5ページにわたる詳細なTilakさんのレポートから、民間人として平和を望む想いが伝わってきます。CODEの幼稚園再建支援は20名~30名ほどの小規模な幼稚園の再建ですが、1軒の幼稚園から広がる子どもたちの将来への可能性、スリランカの和平への道すじは、幼稚園1軒の価値よりもはるかに深く広大な意味があると確信し感動しました。
 ジャフナ(スリランカ北部に位置)は、LTTE(タミル民族解放の虎)が20年間軍事支配してきたタミル人地域です。ジャフナの海岸沿いの人々は、紛争と津波の二重の苦しみを味わいました。そこに南部出身のシンハラ人であるTilakさんが、津波で被災した幼稚園を再建するために20年ぶりにジャフナに入ったことは、北部のタミル人から大きな歓迎を受けました。Tilakさんにとっても、幼稚園再建に込める思い、さらに和平構築への願いを一層強くしました。Tilakさんのような民間レベルでの助け合いや交流が、スリランカの民族的、宗教的、地域的な隔たりを緩和し、復興に導いていくものであると信じています。最後に、Tilakさんからのレポートの最後の段落を紹介します。
 「ジャフナへの訪問は私の人生で大きな経験になった。私は20年ぶりにジャフナを訪れた。もし私たちが北部の人々と平和な環境を築きたいなら、今回の私のような経験ができるよう、私たちは北部の人々が南部に来ること、南部の人々が北部に行くことを促したいと思う。12月に再度Jaffnaを訪れ、社会活動家やLTTEの政治的リーダーと会って、民間人の理念や思想を話し合いたいと思う。」
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スリランカ幼稚園再建プロジェクト報告

スリランカ地図
 CODEはスリランカのNGOであるTRRFFをとおして、スリランカの2つの地域(北部ジャフナ、東部アカライパットゥ)で幼稚園再建支援に取り組んでいます。10月11日にこの支援のパートナーである、TRRFF代表のTilakさんよりメールが来ましたのでここで紹介します。
「私は先週、幼稚園再建予定地であるジャフナに行った。とても困難な旅だったがこの訪問でより多くの経験と熱意を得た。ジャフナはスリランカ北部に位置し、LTTE(タミル民族解放の虎)が軍事支配をしてきたタミル人地域である。私は南部出身のシンハラ人なので、ジャフナへは実に20年ぶりの訪問であった。20年前と比べてあらゆるものが変わっていた。
そこで幼稚園の予定地を見に行き、建設予定の幼稚園の教師と生徒に会った。幼稚園を再建する地域は被災した漁村である。教師と生徒に会い、幼稚園建設の着工式(基礎になる石を置く儀式)を行った。そこにいたすべての人々が幼稚園の再建に感謝し喜んでいた。私たち、シンハラ人があらゆる困難(民族の違い、地理的な不便さ、治安の悪化等)を乗り越えて、タミル人を支援するために南からやってきたことに対しても、大きな歓迎を受けた。」
幼稚園再建のもう一つの予定地である東部アカライパットゥについては、9月14日のTilakさんからのメールによると、教会が購入した土地の一部を使って幼稚園を建設することになりました。被災者は現在仮設住宅に住んでいるという状況で、再定住地(恒久住宅)が決まってから幼稚園再建を進める予定です。
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