中国四川省地震救援ニュース108

2008年5月12日に起きた中国・四川省の地震から3年が過ぎました。
四川省にいる吉椿のレポートです。
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四川大地震3周年レポート5
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ブン川県映秀鎮。世界遺産、都江堰に流れ込む泯江の上流に当たり、周囲は急峻な山に囲まれた谷あいの町である。震源地に近い事もあり、映秀鎮では人口約16000人の内、死者、行方不明者を合わせると約9000人を超える被害を出した。
あれから3年。
5月12日、映秀鎮の中心部にある?口中学校では毎年恒例の追悼式典が行われた。児童、教師が犠牲になったこの中学校は地震遺跡として保存されている以外、被災地を想像させる場所はどこにもない。映秀鎮の町は元の場所に綺麗に再建され、今後、農業と観光で発展させる方針だが、3年経った今、そこに生きる被災者にとって現実はまだまだ厳しい。
映秀の町を見下ろすように並ぶ漁子渓村にも真新しい住宅群が完成して久しいが、入居しているのはほんの一部だ。顔なじみのおばちゃんLさん(50代)は、「まだ内装が出来ていないから・・」と口を濁すが、実際は十数万元する新住宅に入居する費用が払えないということのようだ。
漁子渓村のバラック小屋に未だ住んでいる人は少なくないが、自前の小屋で細々と商売を営むAさん(50代女性)は、「若い人は出稼ぎに行ったり、観光客相手に土産物売って日銭を稼いでいるけど、大した仕事はないねえ。」、「観光客は、映秀を通り過ぎるだけ。皆、都江堰や成都に戻るからねえ。」と将来の不安を隠せない。
目の前に再建された住宅を見ながらAさんは、「震災前、あの場所に畑があったんだ。今はそれもできないよ。」と語る。周りを山に囲まれた映秀鎮には元々耕作できる土地は少ない上に、地震による地滑りなどで鎮の総耕作面積140万平方メートルのうち、約半分の土地を失った。周りの山の斜面には今も草木は生えず、岩肌を露わにしている。
未だバラック小屋に住む被災者の人々と目の前の真新しい住宅群のコントラストが、3年経った今の被災地である。

中国四川省地震救援ニュース107

2008年5月12日に起きた中国・四川省の地震から3年が過ぎました。
四川省にいる吉椿のレポートです。
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四川大地震3周年レポート4
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北川県光明村の住民の多くは、現金収入を出稼ぎに頼らざるを得ない。震災によって住宅再建に多額のローンを組んだ為、出稼ぎにより拍車がかかった。震災後に外資によって村にレンガ工場が3つ誘致され、村民は遠く出稼ぎに行く必要がなくなった。だが、1年を待たずにことごとく閉鎖され、村民は再び職を失った。
Mじいちゃん(79歳)は、小学生の孫Aくんと二人きりだ。Aくんの両親は浙江省に出稼ぎに行っている。震災後、Mじいちゃんの息子さんは木造住宅を再建した。木造を再建する事を決めたのはMじいちゃんの強い希望からだった。小さい頃から木造住宅で暮らしてきたMじいちゃんだが、数年前に建てたレンガの家がこの地震で倒壊した。「やっぱり木造がいい。倒壊した家のレンガはもう使えないけど、木材は再利用出来るからなあ。」と少し自慢げに語る。
そんなMじいちゃんは、最近、よく村の診療所を訪れる。どこか体が悪い訳ではないようだ。医師のPさんによると「寂しいんだろうなあ。」という事だった。
CODEの建設する老年活動センターは、中庭のある伝統木造の三合院だ。出稼ぎで若者のいない村に残る高齢者や子ども達がこの施設を活用することになる。センターが出来れば、村の高齢者で作る老年活動クラブの元代表でもあったMじいちゃんは、今度はきっとここに来るだろう。村の書記Lさんは、「今年の老年節の祭りは、このセンターでやりたいなあ。」と語った。

中国四川省地震救援ニュース106

2008年5月12日に起きた中国・四川省の地震から3年が過ぎました。
四川省にいる吉椿のレポートです。
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四川大地震3周年レポート3
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2011年5月12日。四川大地震から3年。
政府の発表では、被災地では約220万戸の住宅の再建を終え、復興計画の95%のプロジェクトが完了したという。
北川県光明村でもほとんどの住民は住宅再建を終えた。だが、村はどこか閑散としている。村の医師であるPさんに訊くと「今は村民の半分もいないだろうなあ。」という。今年9月の住宅ローン返済期限を目前に村民の多くは出稼ぎに出ている。遠く新疆ウイグル自治区まで行っている人々もいる。
本来8人家族のPさんは、今は、孫のWくん(2歳半)とHくん(10歳)と奥さんの4人のみで暮らしている。Wくんのお父さんは青海省の建設現場へ、お母さんは江油市の農家楽(※)へと出稼ぎに行っていて、お母さんは月に3日の休みの時のみしか帰って来られない。Pさんの診療所は国の資金で立派に再建されたが、閑古鳥が鳴いている。「皆、出稼ぎに出てて、人がいないから診察に来る人も少なくて、収入もあんまりないよ。」とこぼす。
Pさんは震災前、他の家と同じように豚を飼っていた。子豚を売ったり、春節などの祭りの時にさばいて食する。だが、退耕還林(畑を森林に戻すという国のプロジェクト)によって土地を収用され、「豚の飼料のトウモロコシを作る土地がないから、今は豚も飼えないないよ。」と言う。そんなPさんの息子、娘夫婦は遠くで一生懸命働いている。そうやって被災者の人々は3年経った今も家族皆で支え合って生きている。
(※農家楽…中国で行われている、農村の自然や文化を都市部の人々に楽しんでもらうグリーンツーリズム)

中国四川省地震救援ニュース105

2008年5月12日に起きた中国・四川省の地震から3年が過ぎました。
四川省にいる吉椿から、レポートをお送りします。
震災を経験した四川の人たちが、東日本の人たちの痛みを想ってくれています。
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四川大地震3周年レポート2
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北川県香泉郷光明村。人口約700人のどこにでもあるような普通の村に地震が起こった。
地震発生時の14時28分、多くの村民は田植えの為に外に出ていた。それが幸いして村内で亡くなった人はいなかったが、190戸中8割は全半壊、再建を余儀なくされた。
あれから3年。
5月12日、光明村では3年前と同じように村民は田植えに忙しい。隣近所の田植えを皆で手伝う「結」がここでは今も活きている。出稼ぎ先から近所の田植えの手伝いの為にXさん(30代女性)は戻ってきた。「久しぶりだから今日は皆でご飯食べよう!」と僕らを誘ってくれた。
食事中の話題の中心は東日本大震災の話。XさんやLさん(40代女性)は地震の被害と津波の被害の違いにもじっと耳を傾けてくれた。3年前に自分達が大変な思いをしたので他人事ではないようだ。震災で価値観が変わったという事を耳にするが、Xさんもその一人だろう。
「自分達も震災を経験したから、日本から沢山学ばなくてはいけない」と語った。東日本大震災の発生直後、四川地震後に共に活動したボランティアの有志が四川の被災者から東北の被災者へのメッセージを集めてくれた。山形県米沢市の避難所で今も被災者の方々が光明村の人々のメッセージを見ているだろう。国は違っても震災という痛みを受けた被災者同士だからこそ分かる事があるはずである。
そんなXさんは08年12月誰よりも早く木造住宅を再建し始めた。だが、3年経った今も家はまだ完成していない。震災後、夫婦共に職を転々とし、資金が集まったら材料を買い、再び家に手を入れる。そうしながら少しずつ家を作って来た。今年9月の住宅ローンの返済期限を目前に家族バラバラに出稼ぎに出る事を選択したXさん家族。
数か月ぶりに出稼ぎ先の成都から村に戻って来たXさんは、とても楽しそうに村人と田植えをしていた。Xさんにはやっぱり光明村が似合うなあとつくづく思った。
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四川の方々からのメッセージはこちらに掲載しています。
■「ぼくの地球を走る旅」メッセージを集めてくれたNさんのブログ
http://ameblo.jp/masanori0615/entry-10832916212.html
■CODE東日本大震災ブログ
http://tohopacificcoast.seesaa.net/

中国四川省地震救援ニュース104

2008年5月12日に起きた中国・四川省の地震から、今日で3年を迎えました。
私どもCODEは、スタッフ吉椿雅道を現地に派遣し、直後のがれき拾いからはじまり、住民の方々に寄り添う活動を続けてきました。
現在、四川省にいる吉椿から、3年を迎えた被災地のレポートをお送りします。
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四川大地震3周年レポート1
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2008年5月12日14:28 四川大地震(中国では5.12?川大地震)が発生した。四川省の北東から南西に走る約300kmの龍門山断層が動いた事によって、その被害は断層沿いに300km以上に及び、死者6万9226人、負傷者37万4643人、行方不明1万7923人という惨状となった。
あれから3年。
広大な被災地の町は、急速なスピードで再建された。中国独自の「対口支援」(各被災地を沿岸部の経済発展をした省市がそれぞれ担当して支援する)というシステムを活用し、被災地各地に大規模かつ真新しい都市が再建された。
死者行方不明者約2万人という被害を出した北川県城(曲山鎮)は、町が断層上にあり、危険だという理由から元の場所での再建を断念し、町を約20km離れた平地に移転する事になった。わずか2年で新しい町(永昌鎮)が再建されたが、鎮内約7400戸のマンション群に入居しているのはまだ僅か。大学のようなキャンパスを持つ北川中学、人民医院、スタジアム、博物館、商業街などは完成し、すでに活用されているが、広大な町の中で生活するためのスーパーや銀行、郵便局などは未だ建設中で町としての機能が不十分である。
震災前にこの土地に住んでいた高齢者はいち早く入居したが、「広すぎて不便だわ。」という。バスなどの町内交通がまだ整備されていない町で買い物ひとつも数十分歩いて行かなくてはならない。これまで田畑を耕して暮らしてきた農村高齢者にとってこの真新しいマンションと街にはなかなか馴染めない。「子ども達は出稼ぎに行ってて、する事がなくてねえ。」とブラブラしている。そんな高齢者たちがいつの間にか川沿いの橋のたもとに集まって麻雀したり、井戸端会議をするようになっている。
新北川(永昌鎮)は、非常に速いスピードで綺麗な町が再建された。だが、そこにまだ暮らしの匂いが感じられない。復興計画では、今後、産業エリアも建設し、新住民を引き入れ、最終的に2020年までに7万人の町にする予定だ。そこに暮らす人々が胸を張ってここが自分達の故郷だと言える日はいつになるのだろう。
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四川大地震・支援プロジェクト経緯
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CODEは地震直後よりスタッフ吉椿雅道を派遣しました。吉椿は様々な被災地を調査した後、北川県香泉郷光明村において、がれきの片付けをはじめ住民の方々との寄り添い・協働を行ってきました。
既にニュースレターやHPなどでご報告しておりますが、当初建設を予定していた「総合活動センター」(医療施設等を含む)は、中国政府によって建設されることになったため、昨年、村の方々と協議の上この計画を変更し、「老年活動センター」の建設に取り組んでいます。
「老年活動センター」とは、中国の村では一般的な施設で、その名の通り高齢者が集い様々な活動を行うふれあいの場です。また、私たちもKOBEの経験から、高齢者を孤立させることなく元気づける場の大切さを学んできました。
これを、いま香泉郷には数少ない木造の耐震モデルとして建築することにより、地震の際「木造の家は壊れにくかった」という人々の体験を具体的にアピールすることができます。そのため、高齢者の娯楽室、運動用スペースのほかに建物の骨組みが一部見えるようになった「震災展示室」を作ります。また、子ども向けの図書室も備えるなど、高齢者に限らず住民が広く利用できる場となる予定です。特産品作りなど、村おこしにつながる活動の拠点にしたいという話も出ています。
皆様には長らくご心配をおかけしましたが、昨年11月20日、CODE代表理事が光明村を訪問して本プロジェクトに係る調印を行いました。いま、吉椿が最終調整に入っています。今後も、これまで築いてきた光明村の人たちとの絆を大切に、「人と人とがつながる」支援を行っていきます。温かく見守っていただけますよう宜しくお願い致します。

中国四川省地震救援ニュース 103

久しぶりにYさんレポートをお届けします。
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「重陽」という言葉をご存じだろうか。
陰暦(旧暦)の9月9日を日本でも「重陽の節句」、「菊の節句」と呼ばれ、五節句のひとつでもある。陽が重なると書くが、中国では奇数が陽数、偶数が陰数と呼ばれ、1月1日(元旦)、3月3日(上巳)、5月5日(端午)、7月7日(七夕)など陽数の重なる節目の日に様々な行事を行ってきた。最大陽数である「9」が重なることから「重陽」(ちょうよう)と呼ぶようになった。かつてこの日は、「菊の節句」の名の通り、平安時代は「観菊の宴」も催され、菊の花を飾ったり、菊酒(花びらにビタミンC.Eを含む)を飲み、邪気を払い、長寿を祈ったと言われる。そこから現在、中国では旧暦の9月9日は「老年節」(敬老の日のようなもの)と呼ばれている。日本では旧暦はすっかり影を潜めているが、中国では現在でも祝日や誕生日など旧暦が日常生活に用いられている。
 CODEが震災直後から支援している北川県光明村で「重陽節」の祭りを兼ねた「中日友好聯歓会」を開催した。震災後から今回で3回目になるが、村の財政不足やそれぞれの経済的事情によって中止という話もあったが、老年活動クラブや村人有志の熱い希望とボランティアの協力で実現する事になった。
老年節という事で客席の最前列には村の高齢のじいちゃん、ばあちゃんの席が用意され、チャン族の伝統的な音楽、踊りに始まり、村人の歌や芝居、そして日本人、韓国人、中国人ボランティアの歌なども披露され、その後の宴まで大いに盛り上がった。最終演目の「朋友」(友達)という中国語の歌を全員で歌い終わった後、僕らがそでに下がろうとした時、「そのまま!」と呼び止められた。すると、村で一番の仲良しであるお母さん、Xさん(38歳 女性)から大きな額をプレゼントされた。そこには「中日友好一家親」(家族のような中日友好を!)と刺繍で書かれてあった。このXさんは、村の中でもひときわ経済的に大変な状況にあり、再建した自宅も資金不足ゆえに未だ2階部分は完成していない。そんな状況の中、この日の為に数カ月もかけてコツコツと刺繍を仕上げたと思うと涙が溢れた。最近よく、Xさんは、「何もしなくていい。ボランティアの皆が顔を見せに来てくれるだけでいい。」とつぶやく。やはり、目の前のひとりひとりと確実につながっていく事が本当の国際理解を創り出していくのだろう。
 奇しくも、この祭りの行われた10月16日の同時時刻、四川省の省都、成都で大規模な反日デモが行われた。被災地の小さな農村では暖かい祭りが行われ、一方では過激なデモが行われる。日本にいると一部の報道が、すべてであるように思ってしまう。
震災は、これまでの価値観を大きく転換する機会にもなると言われているはずなのに。。。

中国四川省地震救援ニュース102

引き続き、現地スタッフYさんより、震災から2年が過ぎた四川の様子をお伝えします。
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壊滅的になった北川県城(老北川)は、約20km南東の平場に移転し、今年の9月には基本的な工事を終え、永昌鎮(新北川)という名で新しい北川県城としてスタートする。
一方、未だガレキの下に約5000名の人々の眠る廃墟、老北川は、「北川地震記念館」の名で震災の傷跡を地震遺跡としてそのまま残す計画である。
2周年記念日を終えた5月15日、これまで封鎖されていた老北川県城は、正式に申請をすれば一日1000人を限度に見学できるようになった。擂鼓鎮には接待センターも完成し、遺跡記念館建設の全体図も展示され始めた。
計画では、エリアを3つに分け、①県城遺跡エリアでは、222棟の倒壊した建物は保存レベル別に分け、そのままの形で残される。②記念館エリアでは、手前の北川中学のあった一帯に「地震記念館」を建設する。そして③二次災害展示エリアでは、地震後の塞き止めダム湖と土石流発生エリアである。この地震遺跡は約500haの面積になり、周辺の山間部の調整エリアも含めると全体で約3500haの規模になる。四川の被災地ではこのような大規模な記念館はここ北川のみで、地震遺跡としては他に映秀(?川)の震源記念地、漢旺(綿竹)の工業遺跡記念地、虹口(都江堰)の地震遺跡記念地の3つが計画され、すでに着工している所もある。
多くの被災者は地元での仕事は少なく、多額のローンを返済していかなくてはならない。様々な復興事業とその後の新しい街、施設で働ける被災者は決して多くはない。被災者の息遣いの聞こえるような暮らしの復興が求められる。

中国四川省地震救援ニュース101

引き続き、現地スタッフYさんより、震災から2年が過ぎた四川の様子をお伝えします。
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廃墟と化した北川県城を見下ろす「望郷台」でお土産を売り、写真を撮って生計を立てるPさんは、いつも笑顔と握手で迎えてくれる。最近、体調を崩していたようで久しぶりに会って、二人でゆっくりと話す事ができた。
Pさんは、「この場所ももうすぐ終わりだな。」と肩を落とす。現在、北川県城では地震遺跡に向けて工事が進められているが、2周年を過ぎ、一般の見物客にも開放され始めた。これまで多くの見物客はこの望郷台で北川県城を眺め、追悼して、お土産を買って帰っていたが、県城が開放されると今後、望郷台に行く人はいなくなるのは必至である。
「中ではお土産売りはできないだろうな。せめて写真撮影の仕事でも出来ればいいけど。」と将来の不安を隠せない。「もし、だめだったら土方仕事でも何でもするつもりだが、もうこの歳じゃ、どこも雇ってくれないしなあ。田畑を耕せば食べるぐらいは出来るけどだろうけど。」と語るPさんだった。
Pさんは住宅再建で、4万元の借金をした。だが、期限の過ぎた今も返済できないでいる。「返済できる人なんてわずかだよ。」という。政府は住宅の97%が住宅再建を終えたというが、「そんな訳ないよ。見てみろ、あの集合住宅だって1年近く工事しているが、未だ完成してないだろう。」と向かいの山の斜面には再建中の住宅群を指さした。「1年前に始まったトンネル工事だってたった100mしか掘れていないんだ。」と賃金が払われずに労働者がいなくなった事を教えてくれた。対口支援で派手に進む復興事業とは違う現実がここにあった。

中国四川省地震救援ニュース 100

現地スタッフYさんより、震災から2年が過ぎた四川の様子をお伝えします。
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中国では四川大地震を「5.12ブン川大地震」と呼ばれているが、「北川大地震」と呼ぶべきだという被災者も多い。最も多くの被害を出した北川県城は、人口3万人のうち、約2万人が帰らぬ人となり、未だ約5000人がガレキの下に眠ったままである。08年6月の塞き止めダム崩壊による水害、08年9月の土石流も発生し、ずっと封鎖されたままで、一部関係者のみ立ち入り禁止である。今年も5月12日には一般に開放されたが、昨年の30万人ほどの人出はなく、約8万人ほどだったという。
通常、中に入れない被災者の人々はいつの間にか高台から見下ろせる場所「望郷台」から故郷を想うようになった。「望郷台」では、今も被災者の人々によって地震の写真、DVD、チャン族の工芸品などのお土産が売られている。そして、ここは被災者によって「沈痛悼念5.12遇難同胞」と書かれた追悼碑が建てられ、いつの間にか「祈りの場」となっている。追悼碑のそばには線香とロウソク、紙銭が置かれており、志しを払ってお参りする。僕も何度となくここに立ってささやかな祈りを捧げさせてもらった。
だが、2周年を前にここにあったすべての追悼碑やお土産の屋台は地元政府によって取り壊された事を知る者は少ない。顔見知りのお母さんは、「こんな事をするなんて。。。」と目を真っ赤にしていた。たまたま参拝に来ていた大学生にこれを見て、どう思うか訊ねてみると「心が痛む。。」と言って、じっと壊された碑を見つめていた。
2周年を過ぎた今、人々は再び、お土産屋台を再開し、碑のなくなった場所には祈りの線香が絶える事はない。復興のスピードがますます加速する中、被災者の人々はこんな現実を生きている。

中国四川省地震救援ニュース 99

震災後2年を経た光明村から、引き続きYさんのレポートをお伝えします。
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あの大地震から2年を経た今、被災者の思いもそれぞれだ。
直後から支援している光明村のDさん(60代女性)は2周年のこの日、村でひとり静かに食事をしていた。僕らが訪ねて行くと、嬉しそうに食事を出したり、果物でもてなしてくれた。僕が、「あれから2年だね。何人かの村人は、北川県城に行ったみたいだね。」と言うとDさんは、「色々と思いだすから私は行かないわ。。。」といい、当時の様子を少し語ってくれた。
5月12日、光明村の芸能部である「老年活動センター」の一員であるDさん達5名は、自らの芝居や踊りを披露する為に北川県城へと向かった。衣装にも着替え、さあ、これから自分達の出番という所で大地が激しく揺れた。何が何だか分からずに、命からがら建物から飛び出したDさんは、背中から右腕にかけて怪我を負った。混沌とする中、乗せてくれる車もなく、5時間かけて山を越えて光明村へと帰った。村にたどり着くと見渡す限りの家がガレキと化し、失意のどん底にあったそうだ。
直後に光明村でボランティアが、ガレキの片づけを行っていると「あそこのお母さんは一人暮らしだから手伝ってあげて!」という声がかかり、Dさん宅の倒壊した厨房や豚小屋の片づけが始まった。連日、暑い中黙々と汗を流し、自ら持参したカップラーメンを食べるボランティアの姿を見たDさんは、「そんなもの食べていたら体壊すよ!私がご飯作るから食べなさい!」と言う。申し訳なく思ったボランティアは毎日、断り続けるのだが、とうとう根気負けしてDさんの作ってくれた美味しいお粥を食べる事になった。それから毎日、ボランティアの若者達が来るのを楽しみに食事を作るDさんの姿は沢山の事を教えてくれた。
09年3月光明村で行った「中日友好コンサート」を行った際に、Dさんは「小品」と言う芝居を見事に演じた。「あのDさんがこんなに役者だったなんて!」と感動した事を今も覚えている。老年活動センターの5人と共に舞台に上がったDさんは、上述のような当時の様子を話し始めた。その姿はまさしく「語り部」の姿であった。Dさんは当時の思いを胸に抱えながらひとり静かに暮らしている。