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No.156「10年ぶりの被災地③」(四川大地震10周年レポートNo.19)

2008年の四川大地震の際に、被災地に多くのボランティアが駆けつけました。 CODEの支援する光明村に関わった多国籍ボランティアは約100名。その多くは 日本人でした。10年ぶりに光明村を訪れたボランティアの感想文をお届けします。 彼は、四川大地震で中国人の恋人を亡くしました。その後、CODEと共に ボランティアとして光明村に通う中で、少しずつ元気を取り戻していきました。 その後、四川大学に留学し、今も日本語教師として成都で暮らしています。 (吉椿雅道)

10年を経て 市川泰之

 10年という歳月は長いようで短い。 2008年5月初旬、私はトルコにいた。1年に及ぶ旅の最後の国であった。 四川大地震の知らせを初めて知ったのは、トルコのカッパドキアでのこと。 地震の2日後の5月14日、旅先で出会った友人のメールからだった。  ある人の訃報を知ったのはそれから数日後のことだった。 2007年9月に成都に滞在していた時のゲストハウスのオーナーからメールを 受けとった。亡くなった人はゲストハウスのスタッフで、私が好きだった 女性だった。私はすでに購入していた香港行きの航空券の日付を早くして もらい、トルコを後にした。香港から広州に入り、火車で成都に向かった。 その3日間、何も考えられなかった。涙だけが流れでた。  成都に着いてからオーナーの紹介でCODEのYOSHI(吉椿)さんを 紹介された。いろいろ迷った末、ボランティアに参加させてもらうことに した。のちに知ったことだが、YOSHIさんも私の参加に迷ったそうである。 初めは慣れなかった雰囲気にも、日が経つにつれ慣れて行き、メンバー たちとも打ち解け、村人たちとも笑顔であいさつができるようになった。 毎日一緒に汗をかいて働く光明村の人たちやメンバーたちから元気をもらえた。 2か月みんなと一緒に働き、2008年8月、笑顔で成都を離れることができた。  そして、1年後の2009年8月、再び成都の地を踏んだ。中国語を学びに来た。 どうしても村人たちと中国語で交流がしたかった。その時は、まさか自分が 10年もそこで生活するとは夢にも思っていなかったが。  YOSHIさんは依然成都に滞在し光明村のために尽力されていた。 時間があるときに同行させてもらい、徐々に村人と中国語で話すことができる ようになっていった、と言いたいところだが、村人が話すのは四川弁、これが 普通話(中国語の標準語)と発音が違い、苦戦を強いられた。村人たちと普通に 話しているYOSHIさんには感心させられた。また、村に着くとすれ違う村人 たちみんなが、YOSHIさんにまるで10年来の友人が来たかのように大歓迎する。 みんな口をそろえて、日本人は親友だ、という。ボランティアで活動している ときに、YOSHIさんから聞いたことがある、村人の中には日本人嫌いの人が いると。私も中国で生活を始めてから、中国の国営テレビや民放でこれでもか というぐらい反日ドラマが放映されていることを知った。毎日見ていたら、 誰でも日本人が嫌いになるだろう。今とは違い、その頃はまだ日本旅行が ブームになっておらず、SNSやブログなどで日本の良さを紹介する伝達手段も まだそこまで発達していなく、ネットのニュースなどでよく日本の悪口を目に した。実際、私にも「中国から出ていけ」「お前がいる場所はここにはない」 「今から殺しに行く」などのメッセージがくることもあった。  光明村の人たちは違った。尖閣諸島問題で日中間の関係が極限まで悪くなり、 大都市などで日系デパート、レストランなどが襲撃されたり、日本車が燃やされ たり、日本製品がボイコットされたりする中、村人たちはいつも変わらず笑顔で 迎えてくれた。たとえ2国間の政治的関係が悪くなっても、民間の友情は変わら ないことをその時深く感じた  今回10年の節目ということで、ボランティアメンバーたちが成都に来ることに なった。何人かのメンバーとは10年ぶりの再会だ。すごく楽しみだった。  当時学生で独身だった者たちは自分の家庭をもち、仕事に励んでいる。休みを 取るのも難しい。今回来ることができたのはそう多くはない。  YOSHIさん。ご結婚され、もう2児の父である。数年前にNHKの仕事の流儀に 出演された番組を見た。ネパール地震の復興支援の密着取材。常に被災者の今や 未来を考えて仕事をされている。こんな人と共に汗を流し仕事ができたことを 改めてうれしく思った。  成都で1番人気のゲストハウスを開かれていたオーナー一家、地震当時も各国の ボランティアのお世話をしながら、自らも光明村に行かれた。今は新天地の京都 でゲストハウスを経営されている。当時幼かった娘2人ももう高校生と中学生。 彼女たちはやっと私のことを覚えてくれたみたいだ(笑)  ボランティアメンバーの中で一番のおバカキャラであり、ムードメーカーだった 昌平、当時中国語は全くできないのに、なぜか村人と笑顔で話していた(笑)。 今は沖縄で自分の畑を持ち、毎日汗を流して働く立派な男になった。        2007年の成都滞在の時に知り合い、ボランティアに参加してくれたチエちゃん。 今も看護婦として、たくさんの命を救っている。ボランティアがきっかけで 災害看護もしているという。みんな一回りも二回りも大きくなったなあと感じた。  成都から北川へ行く途中の風景は当時とはまるで違う。地震の傷跡は全く見えない。 初めて来た者ならここで地震があったなんて想像もできないぐらいにきれいである。 10年ぶりに来たメンバーたちは少し戸惑っていたように見えた。光明村も以前とは がらりと変わった。家は新しくなり、村の中に釣り堀やCODEが建てた以後農家楽 として使える老年活動センターもでき、診療所や村民政の会議室などが入っている 建物もある。何もかもが新しくなった。地震後、村人たちは迷いながら、奮闘 しながら、確実に前を向いてきた。  村に着いてから、村の中でYOSHIさんの一番の理解者の一人である劉さんの家で 食事をした。メンバーもみんな劉さんを覚えていた。5組の組長一家も料理のお手伝い をしに来てくれていた。当時一緒に汗を流した組長のお父さんももう80歳になった。 でも、まだまだ元気だ。  食事の前に5組に白い見慣れない車が入ってきた。若い女性が降りてきた。食事を するときにその彼女がやってきて言った、みなさん、おひさしぶりです、と。 私は誰だか分らなかったが、当時の写真を見せながら聞いてみた。すると、当時大人 に混じって力仕事を手伝ってくれたあの女の子だった。あの頃はまだ10歳か11歳 ぐらいだった。あの頃幼かった子供たちも、もう大人になった。私たちもおっさん、 おばさんになったのだなと思った。気持ちはまだ20代だが…。 食事後、村の中でYOSHIさんと一番仲のいいお医者さんの診療所に行った。  お医者さんは2008年から村に来てくれた人たちにノートに一言書いてもらうよう にしていた。それを今回見せてもらった。いろんな人が書いていた。ボランティア メンバーとして来た各国の人、YOSHIさんのNGO関係の人、日本の災害ボランティア を勉強する大学生たち、みんないろんな思いを綴っていた。お医者さんはそのノート をずっと大切に持っている。いつ行っても握手と笑顔で迎えてくれる、体はちっちゃい けど、心の大きなこの医者さんが私は大好きだ。  成都へ帰る車の中、みんな疲れて寝ていた。YOSHIさんはこっそり写真を撮っていた。 その写真は2008年仕事をして北川から帰るあの車の中の光景と似ていた。

四川大地震救援ニュースNo.155/四川大地震10周年レポートNo.18

「10年ぶりの被災地②」 2008年の四川大地震の際に、被災地に多くのボランティアが駆けつけました。 CODEの支援する光明村に関わった多国籍ボランティアは約100名。その多くは 日本人でした。10年ぶりに光明村を訪れたボランティアの感想文をお届けします。 彼は、北京を旅している時に四川地震のことを知り、四川に一番最初に駆けつけた ボランティアです。その後、アメリカでの農業修行を終え、今は沖縄で農で暮らしを 立てています。(吉椿雅道)

2018被災地を訪ねて   林昌平  

四川地震から10年、地震当時ボランティアで復興のお手伝いを させてもらった村に、再び行かないかと話をもらった。 あの当時、旅行者だった自分はビザが切れるということで村を後にし、 自分の旅に戻っていく、東南アジアをダラダラと周り帰国するのだが、 僕はずっと大切な何かを置いてきたような気がしていた。 それは帰国し慌ただしい日々の暮らしに戻っていった時もずっと喉に 刺さった骨のようにチクチクと痛む、被災した村は復興なんて言葉とは 程遠く、彼ら、彼女らはまだ瓦礫の中にいた。あの時やれる事はまだ まだあったはずだが僕は自分の方へ舵をきったのだ。 2018年8月、四川省の中心地成都は大都会だった、ブルーシートの 掘っ建て小屋も、大荷物を抱え農村から出てきたような人も、どこか 暗い雰囲気だった物はもうない。新しい商業ビルが立ち並び、地下鉄が 張り巡らされ、若者は皆携帯とにらめっこしてる。 ギュウギュウ詰めで乗り込んでいた軽バンは、リクライニングもできる 冷房完備のバスへ。北に向かう舗装路は綺麗な植生がどこまでもどこ までも続いているように見える。 ◯◯省支援と名の記された真新しいゴーストタウンは、綺麗な遊歩道が 工事されている。壊れたレンガの家やゴミの山はもう見えず、穴だらけ の砂利道で飛び跳ねることもない。  到着した光明村も新しく道沿いに建てられた区画で全くどこか解らない、 記憶を辿り少し村の中に入っていくと見たことのある景色が広がっている。 壊れた壁からコツコツと集めていたレンガは多分修復に使ったのか無く なっていたが、ボランティア達が入った家々は堅実にそこにあり大切に 今も暮らしている、変わらぬ間口からあの頃と同じような笑顔で迎えて くれる。「飯はくったか?」僕たちの10年が交わった気がする。 形ある物は変わっていってしまうのだけれど、人と人ってきっと変わら ないんだろうな。  僕はずっと思い違いをしていた。 日本に戻り忙しさの中で遠のいていった四川省での体験は、刺さった骨 のような罪悪感や大切な忘れ物のような大げさなものではなかった。 10年ぶりにお呼ばれした食事はとても温かく、言葉はわからなくなって いたが彼らの優しい目や声から伝わってくるのは、あの時、一緒に過ごした 時間を今でも大切に思ってくれているという事、そして僕たちはいつの間 にか被災者でもボランティアでもなくなって只の大切な朋友やったってだけ。 お互い一生懸命生きてきてまたこうして笑顔で会えた事が嬉しい。 戻ってこれてよかった。  光明村の老年活動センターにはCODEと記されていた。この10年ずっと 私たちの心を繋いでくれていた日本の災害救援NGOに感謝をしたい。

四川大地震救援ニュースNo.154/四川大地震10周年レポートNo.17

「10年ぶりの被災地①」

2008年の四川大地震の際に、被災地に多くのボランティアが駆けつけました。 CODEの支援する光明村に関わった多国籍ボランティアは約100名。その多くは日本人でした。 10年ぶりに光明村を訪れたボランティアの感想文をお届けします。 彼女は、2008年に元CODE理事の黒田裕子さん(2014年ご逝去)と光明村で出会ったことで 災害看護の道を志し、今では仕事の傍ら、フィリピンやバングラデシュなどに行き、 国際医療協力も行っています。(吉椿雅道)

10年目の光明村 三嶋千恵

 あれからもう10年か、と四川大地震10年目の集いの案内を受けて思った。 当時、バックパッカーとして世界を旅していた私は中国にいて、その時に起こった四川大地震。 前年にも成都を訪れていたこともあり、困っている人たちのために何かできることはないかと 成都に向かった。そこで既に活動を始めていたCODEに参加させてもらうことができ、光明村に 通い瓦礫撤去や仮設住宅建設に携わった。 その時の活動を通し、災害支援について素人だった私は、活動や村人との関わりを通し信頼関係や 寄り添うことの大切さなど様々なことを体感しながら学ぶ毎日だった。印象的だったのは、光明村の 人たちだった。家は崩れ路上でなんとか生活するような途方にくれそうな状況の中でも、笑顔で、 子供たちも自分ができる作業に参加し、井戸を1日で掘るなど驚くパワーだった。 そして私たちボランティアを気遣ってくれさえした。村人たちは私たちが勇気をくれたと言って くれていたが、私自身村人のそういった姿に尊敬の念を抱き、感動さえした。共に活動した ボランティア仲間も村人への思いは同じで、ガーっと働き帰路は車で爆睡するような体育会系合宿 のような毎日であったが、熱意ある仲間の姿勢からも刺激を受け、とても充実していた。 私の活動の最終日にはまだ仮設住宅建設も途中だったが、笑顔で送り出してくれる村人たちが 元気でこの大変な試練を乗り越えてくれることを願わずにいられなかった。  それから村への訪問が叶わなかったこともあり、10年経ち、今村はどうなっているのか、 村人たちはどうしているのか、集いに参加させていただくことにした。村への道から驚きだった。 かなり様変わりし高層ビルも道路脇に見えた。村に着いた時も気づかなかった程だった。 私の記憶にある村はどの辺りだろう、と分からなくなる程で正直戸惑った。 けれど、迎えてくれる村の人たちに再会し嬉しくなった。村の人たちは変わらなかったからだ。 懐かしい笑顔で迎えてくれ、元気で快活に話す様子、私たちのためにと村で採れた野菜を使った 料理を振る舞ってくれ、当時を思い出した。 一人の女の子は、当時の写真を見せながら、これが私、と教えてくれた。一生懸命瓦礫を運ぶ 作業に参加していた子と一致し、成長し大人になった様子にも嬉しさを感じた。 村を歩き回るうちに記憶とも一致してきて、当時の瓦礫や損壊した家がある風景から、緑豊かな田畑、 家畜が賑やかであちこちに果物がなる豊かな村になり、村人たちの本来の生活の様子が見えてきた。 震災を乗り越え、今穏やかに本来の生活に戻れている様子を見られて喜びを感じた。 村を訪問しながらこれまでの経過やこれからの展望の話を聞くことができた。10年ぶりの私には 新鮮な話だったが、その時々村を訪問し村人の声に耳を傾けてきた10年の積み重ねを感じられた。 CODEのように10年にも及ぶ長期的支援は易しいことではないと思うが、村人に寄り添った支援が 今の生活に繋がったのだと感じた。  私は10年前のこの経験から、日本へ帰国後は国際貢献できる人になりたいと新たな道を歩み始め、 少しずつ実現しつつある。辛くしんどいこともあったけど、この時の経験と思いが支えてくれた。 変わりゆくもの、変わらないもの。今回の訪問では時の流れを感じつつ、当時そこにいて色々経験し 沢山の人と出会い感じたことが、今に結びついていることを改めて感じた。これからも光明村の 人たちが笑顔で元気に過ごせることを願っています。

四川大地震救援ニュースNo.153 /四川大地震10周年レポートNo.16

2008年の四川大地震から10年、今も四川省成都で暮らす当時の日本人ボランティアがいます。彼は2008年の地震で中国人の恋人を亡くしました。その後、悲痛な思いを抱えながらも、CODEのボランティアとして光明村に通いました。被災してもなお逞しく生きる光明村の人に出会い、共に汗を流すことで彼自身が元気になっていきました。彼は、今、成都で日本語教師をしながら、CODEの活動をサポートしてくれています。その事が記事になりましたので、ご紹介します。(吉椿) http://www.recordchina.co.jp/b600591-s0-c30-d0063.html

四川大地震救援ニュースNo.152 /四川大地震10周年レポートNo.15

2008年の中国・四川地震後からCODEは支援を続けています。近年は、日本の若者たちと共に四川の被災地で学び合う「日中NGO・ボランティア研修交流事業」を行っています。その様子が、本日の毎日新聞に取り上げられました。(吉椿)

以下から記事をご覧になれます。 http://code-jp.org/images/shisen-kobenp.pdf

四川大地震救援ニュースNo.151/四川大地震10周年レポートNo.14

2008年5月12日に中国四川省を襲ったM8.0の地震からちょうど10年を迎えました。これまでのCODEの取り組みが神戸新聞(5月12日夕刊)に掲載されましたので、ご紹介いたします。引き続きご支援、ご協力お願いいたします。(吉椿雅道)

以下のURLから記事がご覧いただけます。 http://code-jp.org/images/shisen.kobe-0512.pdf

四川大地震救援ニュースNo.150/CODE未来基金ニュースNo.58

「四川フィールドワークを実施しました!4」

2018年度後期のCODE未来基金のフィールドワークで神戸大学の学生4名が、四川大地震(2008年)の被災地を訪れました。今回の企画者の西本楓さんは、「食による村おこし」をテーマにして、医食同源の息づく中国で、被災者に料理を学び、少数民族の食文化に触れました。また、観光復興の現状を知り、自分の目で現場に立ち、自分の頭で考え、現地に寄り添うという事を学びました。複数回に分けて参加した学生たちの感想文をお届けします。(吉椿雅道)

四川フィールドワーク感想 神戸大学国際人間科学部2年  西本楓

わたしはもともと食育に興味がありました。 そこで、医食同源の考えがあり、豊かな食の伝統を持っている中国・四川で、食を学び、それを現地に生かす体験をしたくて、 CODEが支援している光明村で、食を通じて観光復興をお手伝いする企画を作りました。  でも実際行ってみると、日本で想像していた状況とは違っていました。 時期的な問題で、活動センターは使われていなかったし、住民の方々の観光への意識はとても低いものでした。 企画者だった私は、そんな状況を見ても、日本で企画したものを実現しなければ!という思いが強く、強引な考えを持ってしまっていました。 でも、その日のミーティングで、他のメンバーの意見を聞いてそれは良くないということに気づきました。ちゃんと、その村にあったことを、小さくてもいいから進めていくことが大事だということを知りました。 フィールドワークの中でインタビューをしていく中で、CODEの支援について気づいたこと2つあります。 一つ目。 ある観光地で働いているおばさんは怒っていました。その怒りの1つの原因は、政府やボランティアが配布している支援品が自分に回ってこないことでした。 その方は、夫と二人暮らしで当時は子供もいませんでした。 しかし、実際その家庭は貧しく、薄い布団しか持っていなかったとのことでした。そのような家庭は、支援に漏れることがあると言います。 表面上の肩書きを知るだけだとわからない大変さ、や、状況があることを痛感し、吉椿さんをはじめとしたCODEが行なっている、1人1人の名前を呼びかけ、話を聞こうとする姿勢の重要さを知りました。 2つ目。 光明村に着いて、インタビューを行なっているうちに、浮き上がってきた問題は震災独自の課題ではなく、平凡な村が持っているよくある問題だと言うことに気づきました。 もう震災の傷跡は当時に比べてほとんどないように感じました。それなのになぜまだ10年経った今もCODEが支援するのか、わからなくなりました。 CODEがどんな団体か、わたしが吉椿さんの話を聞いていて、支援している光明村をみて思ったことがあります。 私たちがここにやってきたのも、ここで震災があったから、吉椿さんとこの村の人々が出会ったのも震災がきっかけだということ、 私たちはここで中国の魅力的な文化や知恵を学んでいるということ それを帰国した後こんな風に日本で報告すること,、 わたしはずっとCODEは災害支援をしている団体、と思っていたけど、CODEは震災をきっかけにして、世界と日本を繋ぐ団体でした。 最後に、 中国でこのような貴重な体験ができたのも、支えてくださっているサポーターの方々、現地で一番お世話になった吉椿さん、のおかげです。 本当にありがとうございました。

四川大地震救援ニュースNo.149/CODE未来基金ニュースNo57

「四川フィールドワークを実施しました!3」

2018年度後期のCODE未来基金のフィールドワークで神戸大学の学生4名が、四川大地震(2008年)の被災地を訪れました。今回の企画者の西本楓さんは、「食による村おこし」をテーマにして、医食同源の息づく中国で、被災者に料理を学び、少数民族の食文化に触れました。また、観光復興の現状を知り、自分の目で現場に立ち、自分の頭で考え、現地に寄り添うという事を学びました。複数回に分けて参加した学生たちの感想文をお届けします。(吉椿雅道)

「なにげないことが皆にとっての幸せ」 神戸大学経済学部4年 久保陽香

「なにげないことが皆にとっての幸せ」 この言葉は村の人々の役に立てずもやもやしていた私を助けてくれた、吉椿さんの言葉です。 3月22日〜30日の9日間、中国四川省を舞台に「食と村おこし」をテーマに震災について学び、光明村で観光復興支援に取り組みました。正直、光明村に観光復興のためのなにかを残せたとはいえません。しかし、それ以上の学びとかけがえのない仲間に出会うことができました。 中国四川省での毎日は、刺激が多くてすごく楽しく充実していました。しかし一方で自分が震災について無知であることに恥ずかしさや、食と復興支援の結びつきをなかなか見出せないことに焦りを感じていました。そして四川大地震の震災後地や復興事例を見学したり村の人々と話したりしていく中で、 “復興支援”というものがどんどん分からなくなっていきました。 どうしたら住民が主体的に動けるのか?しかし政府が反対したら全て終わりなのか?そんな状況で村の人を巻き込んでいいのか?そもそも観光復興する必要はあるのか?そもそも支援とは何なのか? “復興支援”などと一言で表現してはならないほど、政治・環境・貧困・経済など様々な要素が絡み合い複雑なもので、果たして自分たちができることがあるのかとすごく不安が募って生きました。そんな時にふとミーティングで吉椿さんがおっしゃった言葉が、 「気負わなくていい。何気ないことがみんなにとっての幸せなんだよ」 というものでした。この言葉を聞いた時、涙が湧き出てきました。私は、一番大切なことを忘れていました。目に見える成果を求めすぎて、それに執着しすぎて、本当の意味で村の人々の幸せを考えられていなかったことに気づきました。それから肩の荷が降りた気がして、ただ純粋に、「光明村の方々のことを知りたい、もっと仲良くなりたい」という思いで一緒に食事を囲み、食のことも震災のことも恋愛のこともたくさん話しました。そうやって仲良くなる中で、どんどんみんなへの愛も大きくなってきて、やはり彼らの人生の中で大きな転換期になった“震災”に関しても、もっと勉強したいと思うようになりました。 この9日間、予想以上にうまくいかないことも多かったけれど、だからこそ想像以上に学びも沢山あり、そしてこれから自分の人生に大きな影響を与えてくれるものになりました。自分の課題や大切にしたいことにもう一度向き合うことができ、そして私はこれからも“人と人との繋がり”を大切にして生きていこうと思いました。

四川大地震救援ニュースNo.148/CODE未来基金ニュースNo56

「四川フィールドワークを実施しました!2」

2018年度後期のCODE未来基金のフィールドワークで神戸大学の学生4名が、四川大地震(2008年)の被災地を訪れました。今回の企画者の西本楓さんは、「食による村おこし」をテーマにして、医食同源の息づく中国で、被災者に料理を学び、少数民族の食文化に触れました。また、観光復興の現状を知り、自分の目で現場に立ち、自分の頭で考え、現地に寄り添うという事を学びました。複数回に分けて参加した学生たちの感想文をお届けします。(吉椿雅道)

四川フィールドワーク感想   神戸大学法学部3年  石川睦巳

【プログラム参加前】 プログラムに参加した動機が「医食同源を体験する」ことで私は子供の時から、アトピーがあり、食べるものには気をつけていましたが、事前学習で吉椿さんから東洋医学の基礎について教えていただいて、さらに興味を持ったので、食文化というところも深く学びたいと思っていました。 そしてテーマとしては文化と志のタネってことを挙げていました。 3月の頭に韓国に行って、異文化って面白い!って感じて 中国でもその土地の文化を感じ、価値観を広げるためにもたくさん学びたいなと思っていたことと 今年3年生になって自分の将来を考えていく中で、「なんとなく」だけで周りに流されたくはないな、自分の人生を自分で選択していきたいなと思って、そうするためにも、今まで経験したことのない経験をたくさんして、いろんなものを見たいと思っていました。 詳しくはhttp://code-jp.org/blog/blog/2018/03/18/shisen-ishikawa/を見てください。

【動機やテーマに対して 】 動機としていた医食同源に関しては 現地のお母さんが素食や医食同源について勉強していて、その方が働いている素食を提供しているお店でご飯を食べさせてもらったりしました。中国では日本よりメジャーなんだなって感じられたり、 吉椿さんがご飯ごとに色々話してくださってより興味を持ちました。これからもっと学びたいと思っています。 文化という面では、 中国の国民としての自助という考えや、民族、お茶文化、食文化に触れて 楽しく感じた、反面貨幣経済の導入などによって生活が変化していることも学んで文化を守るとはどういうことなのか考えさせられました。 またその土地の人々の意識や考え方や文化を知る上で歴史的な背景を知ることが大事だなぁとも感じました。 自分の志のタネという面では、 私は環境問題に興味があるんですが、 中国ではシェア自転車が町中にあったり、公明村ではトイレが動物達へなど循環しとてもサステナブルで 遅れているイメージの中国は実際進んでいるなぁと感じました。もっと調べてみようと思います。

【その他感想、学んだこと】 ■相互性 ボランティアって言葉はなんとなく嫌いでした それはなんとなく与える、してあげるってイメージで偽善ぽいなとどこかで思ってたからだと思います。しかし、インタビューをするうえで、政府がなんでもしてあげるだけじゃ村の人たちの意識は上がらないことがわかったり、私たちがインタビューする上で、聞いてばかりではなく、日本のことも教えてあげると何かのきっかけになるかもしれないって吉椿さんが言っていたこととか、吉椿さんと村の方々との強い絆をみて、一方的なものじゃなくて、お互いに学び合うことが大事とわかりました。 ■長期的観点の重要性 また村の復興は政府主導で観光観光ってなってるけどその先を考えないといけないなと思いました。観光は盛んになったがその後衰退して観光客があまり来なくなったという村の方にお話を聞いたこととかを踏まえてそう感じました。 また村ごと震災の遺跡がのこされている場所にいったときも、この遺跡は今後どうしていくのかとかより長期的な視点で知りたいと思いました。遺跡に草木が生い茂り、10年の月日を感じる一方で、遺跡の維持費は今後大きくなるだろうし、まだまだ課題もあるんだろうなと感じました。 ■自分の生き方 海外という土地と、楽しい仲間と、非日常の経験の中で自分がこういう風に生きていきたいってものを考えることができました。今後もっと深めて言語化していきたいと思っています。海外ってやっぱ楽しいし視野が広がるなと感じました 。

【最後に】 ここに書き切ることのできないほど貴重で価値ある経験ができました。 CODEのみなさん、サポーターのみなさん、こういう機会を与えてくださって本当に感謝しています。ありがとうございます。この経験を糧にもっと成長していきたいです。

四川大地震救援ニュースNo.147/CODE未来基金ニュースNo55

「四川フィールドワークを実施しました!」

CODE未来基金ニュースNo55「四川フィールドワークを実施しました!」 (四川大地震救援ニュースNo.147/四川大地震10周年レポートNo.10) 2018年度後期のCODE未来基金のフィールドワークで神戸大学の学生4名が、四川大地震(2008年)の被災地を訪れました。今回の企画者の西本楓さんは、「食による村おこし」をテーマにし、医食同源の息づく中国で、被災者に料理を学び、少数民族の食文化に触れました。また、観光復興の現状を知り、自分の目で現場に立ち、自分の頭で考え、現地に寄り添うという事を学びました。複数回に分けて参加した学生たちの感想文をお届けします。(吉椿雅道) 四川フィールドワークを終えて    神戸大学国際文化学部3年 田口春香  長かったようで短かった、四川のフィールドワークプログラム「食×村おこし」が終了しました。充実した9日間を過ごすことができ、大変満足な気持ちです。  私が事前に立てていたテーマは、「人々がどのような気持ちで復興に向かい、どのように生活しているのかを知ること」それから、「自分たちが村の活性化のちいさなきっかけになること」でした。主に自分の興味分野である食、震災、村おこし、異文化というキーワードを大切にしたいと考えていました。それを踏まえて、この9日間に感じたことや、終えてみて今思うことをつづっていきたいと思います。  まず驚いたことは、震災の復興に関する政策が日本と大きく違っていたことです。中国では、観光復興を大きく打ち出していると聞きました。震災が起こって大変な状態になっている街をそのまま残して観光地にしていたり、農村を観光地化していたり。日本でも、後世に震災の教訓を残すためいくつか保存が議論されている場所がありますが、観光復興を目的としている場所はありません。四川では、震災後、被災された方々が避難所で商売を始めるなどのたくましい国民性が見られたとのことです。たくましい人々が多いため、日本で重視されている傾聴ボランティアも存在しないと聞き、とても驚きました。とはいっても、お話を聞いていくと、誰もが観光復興に前向きというわけではないようでした。観光地として再整備される代わりに、震災前とは全く違う生活を余儀なくされる方々もたくさんいるのです。一度崩れた生活を違った形で取り戻すのは自分が思っている以上に大変なことなのだと感じました。  そんな違いに驚く中で、日本と共通しているなと思ったところがあります。それは、震災をきっかけにしてそれぞれの地域が震災前から抱えている問題がより顕著に表れるようになるということです。出稼ぎが多いことや、伝統的な生活の維持など、一見すると震災とは関係がないように感じる問題も、震災の影響を受けています。それは日本においても同じで、高齢化や地域コミュニティの問題などが挙げられると思います。「震災支援はいつまで行うのか」「復興はいつ達成されるのか」よく議論されることのように思いますが、私はその問いはあまり意味のないことと考えます。震災がきっかけで生活の見直しをせざるを得なくなっただけで、我々が地域や人に向き合う上で考えるべきは、「その地域に住む人々がより生きやすくなるにはどうしたらいいか」だと思うからです。あらゆる問題も、生活に関わっている以上繋がっています。私は、震災をあくまで一つのきっかけとして、包括的にその地域を見て、そこに住む人々がより幸せに生きられるお手伝いがしたいなと思いました。  私がこのフィールドワークに行って最もよかったなと感じたのは、中国という国への偏見をなくすことができたことです。行く前は正直、あまり良いイメージを抱いてはいませんでした。日本よりも遅れているだとか、マナーが良くなさそうだとか、日本人を快く受け入れてはくれなさそう、だとか。しかし実際に行ってみると、想像を覆されることばかりでした。日本が学ぶべき技術もシステムもたくさんあったし、出会う人すべてがいい笑顔で話しかけてくれました。 言葉が通じなくても、同じ食事を囲むことで、一緒に踊ることで、笑顔を交わすことで心を通じ合わせることができました。とても嬉しくて、泣きそうになることが何度もありました。失礼なことを考えていた自分を恥じました。国も、性別も、年齢も関係なく、偏見なく関係を築けるような人間になりたいと強く思いました。 そう思わせてくれた中国で出会った人々、この機会をくれたCODE未来基金に関わる皆さん、今回一緒に行ってくれた頼もしい3人の仲間、たくさんのアドバイスをくれた吉椿さん、すべての方に感謝しています。ありがとうございました。