No.156「10年ぶりの被災地③」(四川大地震10周年レポートNo.19)

2008年の四川大地震の際に、被災地に多くのボランティアが駆けつけました。 CODEの支援する光明村に関わった多国籍ボランティアは約100名。その多くは 日本人でした。10年ぶりに光明村を訪れたボランティアの感想文をお届けします。 彼は、四川大地震で中国人の恋人を亡くしました。その後、CODEと共に ボランティアとして光明村に通う中で、少しずつ元気を取り戻していきました。 その後、四川大学に留学し、今も日本語教師として成都で暮らしています。 (吉椿雅道)

10年を経て 市川泰之

 10年という歳月は長いようで短い。 2008年5月初旬、私はトルコにいた。1年に及ぶ旅の最後の国であった。 四川大地震の知らせを初めて知ったのは、トルコのカッパドキアでのこと。 地震の2日後の5月14日、旅先で出会った友人のメールからだった。  ある人の訃報を知ったのはそれから数日後のことだった。 2007年9月に成都に滞在していた時のゲストハウスのオーナーからメールを 受けとった。亡くなった人はゲストハウスのスタッフで、私が好きだった 女性だった。私はすでに購入していた香港行きの航空券の日付を早くして もらい、トルコを後にした。香港から広州に入り、火車で成都に向かった。 その3日間、何も考えられなかった。涙だけが流れでた。  成都に着いてからオーナーの紹介でCODEのYOSHI(吉椿)さんを 紹介された。いろいろ迷った末、ボランティアに参加させてもらうことに した。のちに知ったことだが、YOSHIさんも私の参加に迷ったそうである。 初めは慣れなかった雰囲気にも、日が経つにつれ慣れて行き、メンバー たちとも打ち解け、村人たちとも笑顔であいさつができるようになった。 毎日一緒に汗をかいて働く光明村の人たちやメンバーたちから元気をもらえた。 2か月みんなと一緒に働き、2008年8月、笑顔で成都を離れることができた。  そして、1年後の2009年8月、再び成都の地を踏んだ。中国語を学びに来た。 どうしても村人たちと中国語で交流がしたかった。その時は、まさか自分が 10年もそこで生活するとは夢にも思っていなかったが。  YOSHIさんは依然成都に滞在し光明村のために尽力されていた。 時間があるときに同行させてもらい、徐々に村人と中国語で話すことができる ようになっていった、と言いたいところだが、村人が話すのは四川弁、これが 普通話(中国語の標準語)と発音が違い、苦戦を強いられた。村人たちと普通に 話しているYOSHIさんには感心させられた。また、村に着くとすれ違う村人 たちみんなが、YOSHIさんにまるで10年来の友人が来たかのように大歓迎する。 みんな口をそろえて、日本人は親友だ、という。ボランティアで活動している ときに、YOSHIさんから聞いたことがある、村人の中には日本人嫌いの人が いると。私も中国で生活を始めてから、中国の国営テレビや民放でこれでもか というぐらい反日ドラマが放映されていることを知った。毎日見ていたら、 誰でも日本人が嫌いになるだろう。今とは違い、その頃はまだ日本旅行が ブームになっておらず、SNSやブログなどで日本の良さを紹介する伝達手段も まだそこまで発達していなく、ネットのニュースなどでよく日本の悪口を目に した。実際、私にも「中国から出ていけ」「お前がいる場所はここにはない」 「今から殺しに行く」などのメッセージがくることもあった。  光明村の人たちは違った。尖閣諸島問題で日中間の関係が極限まで悪くなり、 大都市などで日系デパート、レストランなどが襲撃されたり、日本車が燃やされ たり、日本製品がボイコットされたりする中、村人たちはいつも変わらず笑顔で 迎えてくれた。たとえ2国間の政治的関係が悪くなっても、民間の友情は変わら ないことをその時深く感じた  今回10年の節目ということで、ボランティアメンバーたちが成都に来ることに なった。何人かのメンバーとは10年ぶりの再会だ。すごく楽しみだった。  当時学生で独身だった者たちは自分の家庭をもち、仕事に励んでいる。休みを 取るのも難しい。今回来ることができたのはそう多くはない。  YOSHIさん。ご結婚され、もう2児の父である。数年前にNHKの仕事の流儀に 出演された番組を見た。ネパール地震の復興支援の密着取材。常に被災者の今や 未来を考えて仕事をされている。こんな人と共に汗を流し仕事ができたことを 改めてうれしく思った。  成都で1番人気のゲストハウスを開かれていたオーナー一家、地震当時も各国の ボランティアのお世話をしながら、自らも光明村に行かれた。今は新天地の京都 でゲストハウスを経営されている。当時幼かった娘2人ももう高校生と中学生。 彼女たちはやっと私のことを覚えてくれたみたいだ(笑)  ボランティアメンバーの中で一番のおバカキャラであり、ムードメーカーだった 昌平、当時中国語は全くできないのに、なぜか村人と笑顔で話していた(笑)。 今は沖縄で自分の畑を持ち、毎日汗を流して働く立派な男になった。        2007年の成都滞在の時に知り合い、ボランティアに参加してくれたチエちゃん。 今も看護婦として、たくさんの命を救っている。ボランティアがきっかけで 災害看護もしているという。みんな一回りも二回りも大きくなったなあと感じた。  成都から北川へ行く途中の風景は当時とはまるで違う。地震の傷跡は全く見えない。 初めて来た者ならここで地震があったなんて想像もできないぐらいにきれいである。 10年ぶりに来たメンバーたちは少し戸惑っていたように見えた。光明村も以前とは がらりと変わった。家は新しくなり、村の中に釣り堀やCODEが建てた以後農家楽 として使える老年活動センターもでき、診療所や村民政の会議室などが入っている 建物もある。何もかもが新しくなった。地震後、村人たちは迷いながら、奮闘 しながら、確実に前を向いてきた。  村に着いてから、村の中でYOSHIさんの一番の理解者の一人である劉さんの家で 食事をした。メンバーもみんな劉さんを覚えていた。5組の組長一家も料理のお手伝い をしに来てくれていた。当時一緒に汗を流した組長のお父さんももう80歳になった。 でも、まだまだ元気だ。  食事の前に5組に白い見慣れない車が入ってきた。若い女性が降りてきた。食事を するときにその彼女がやってきて言った、みなさん、おひさしぶりです、と。 私は誰だか分らなかったが、当時の写真を見せながら聞いてみた。すると、当時大人 に混じって力仕事を手伝ってくれたあの女の子だった。あの頃はまだ10歳か11歳 ぐらいだった。あの頃幼かった子供たちも、もう大人になった。私たちもおっさん、 おばさんになったのだなと思った。気持ちはまだ20代だが…。 食事後、村の中でYOSHIさんと一番仲のいいお医者さんの診療所に行った。  お医者さんは2008年から村に来てくれた人たちにノートに一言書いてもらうよう にしていた。それを今回見せてもらった。いろんな人が書いていた。ボランティア メンバーとして来た各国の人、YOSHIさんのNGO関係の人、日本の災害ボランティア を勉強する大学生たち、みんないろんな思いを綴っていた。お医者さんはそのノート をずっと大切に持っている。いつ行っても握手と笑顔で迎えてくれる、体はちっちゃい けど、心の大きなこの医者さんが私は大好きだ。  成都へ帰る車の中、みんな疲れて寝ていた。YOSHIさんはこっそり写真を撮っていた。 その写真は2008年仕事をして北川から帰るあの車の中の光景と似ていた。

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