四川省地震4周年レポート No.3

2008年5月に起きた四川省地震のレポートをお送りします。
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四川省地震4周年レポート No.3
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●対口支援の課題2 「雇用」
5月12日14時28分、神戸の自宅でひとり黙祷した。
毎年、被災地でこの日を過ごしてきた。最大の被災地、北川県城へと続く山東大道(山東省の対口支援によって建設されたために名づけられた。)は、きっと今年も遺族に会いに行く多くの被災者の車で渋滞となっているだろう。この4年間で出会った数百、数千の被災者の人々の顔が目に浮かぶ。
 去年(2011年)のこの日、北川県光明村のLさん(40代女性)が、「新しい北川県城に仕事もらいに行ったんだけど、ダメだった。」と語った事を思い出す。
2008年の震災直後から始まった山東省各市の対口支援は、約1年間、北川県内の各郷鎮の支援に取りかかった。山東省青島市は北川県曲山鎮を、済南市は北川県擂鼓鎮を、溜博市は香泉郷をというような具合にカップリングをして、各郷鎮の中心の街の公共の病院、学校、庁舎などを再建した。だが、その下の「村」単位までの支援はなかった。先述の光明村のLさんは、これまでご主人の仕事を手伝いながら、肉体労働の単発のアルバイトを見つけては働いてきた。2009年3月頃に村内に3つのレンガ工場が外省の民間企業によって立て続けに建設され、「村で働ける!」と光明村にわかに活気づいた。だが、レンガの需要はそう長くは続かず、数カ月でことごとく閉鎖していった。
 2009年6月には北川県内に分散していた山東省各市の支援チームは新北川県城(永昌鎮)に集結し、山東省の総力を挙げて「新北川」の復興事業に本腰を入れた。整地、道路、橋などのインフラ整備、学校、病院、博物館、体育館、郵便局、銀行、官庁、ホテル、マンションなど街に必要なものすべてを山東省各市がエリア毎に建設することになった。建設に必要な資材、人材、労働力もほとんど山東省から運搬された。広大な敷地で進む197の復興事業(総費用約68億元=約884億円)にLさんのような被災者の雇用が期待されたが、実際にそこで働く人々のほとんどが、山東省からの出稼ぎ労働者ばかりであった。197のプロジェクトのうち、銀行や電力会社などの国営企業の独自プロジェクト以外は、ほとんどが山東省の対口支援によるものであり、Lさんのような被災者がありつける仕事は、地元の北川県や綿陽市が独自で行うわずかな復興事業のみである。
 震災からちょうど4年。復興事業をほぼ終えた被災地には真新しい綺麗な街が出現した。観光復興を謳う政府だが、現実には観光で収入を得ている被災者はごくわずかである。被災地には相変わらず仕事はそれほどなく、遠く出稼ぎに行く被災者も多い。光明村の半数は、今も家族と離れ離れで暮らしている。