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四川省地震4周年レポート No.1
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2008年5月12日に発生したM8.0の四川大地震(中国では、5.12ブン川大地震)では、死者6万9226人、負傷者37万4643人、行方不明者1万7923人、総被災人口約4600万人、家屋被害(倒壊21万6000棟、損壊415万棟)という未曽有の災害となった。(2008年8月25日 国務院発表)
被災地は、四川省だけでなく、甘粛省、陝西省、重慶市、雲南省などの10省市、417県を含む総面積約50万平方km、地震を引き起こした龍門山断層の長さ300km以上と広範囲に及び、少数民族の居住する標高2000mを超える山岳部から農村部、人口約1100万人の大都市、成都まで多様な地形、文化を有する地域に大きな被害をもたらした。四川大地震は、1949年の新中国成立以降、その規模から最も甚大な災害だと言われる。(死者数では1976年の河北省唐山地震が勝る。)
最大の被災地、北川県城(曲山鎮)では人口3万人の内、約2万人の命が犠牲となった。4年を経た今も約5000人の亡骸はガレキの下に眠ったままである。毎年、5月12日には国家級の追悼式典がここで開かれ、一般にも無料開放され、沢山の人が追悼に向かう為に数時間の渋滞が起きる。政府は、この甚大な被災地を地震の遺跡公園としてそのままの状態で保存する事と決め、現在、被災地の4か所(北川県城、ブン川県映秀鎮、綿竹市漢旺鎮、都江堰市虹口郷)に地震遺跡と記念館を建設している。北川県城などは昨年よりすでに一般公開されている。
町ごと移転を決めた北川県城は、20㎞ほど平地に下りた場所に新たに再建され、永昌鎮(新北川)と名前を変える事になった。北川県城で被災した人々は、この9平方kmの広大な新しい街、「新北川」に居住している。集合住宅、学校、病院、銀行、郵便局、博物館、体育館などすべては新しく、道や橋も広く、公園、広場も建設され、非常に便利な近代都市に見える。だが、どこか生活の匂いが感じられない。2012年に入って、商店や食堂などは増え、人の姿を見かけるようになったが、その多くは観光客である。また、中心の商店街に店を出しているのは被災者よりも外部から来た人々も多い。街は建設されたが、個人商店以外の仕事はあまりなく、住民の多くは外地へと出稼ぎに出て行く。
震災前この場所は、安県黄土鎮と呼ばれ、広大な田畑が広がる田園地帯だった。春には一面の菜の花が黄色く広がっていた。ここで暮らしていた約1万人農民は、再建期間中、別の場所へと移転を迫られ、再建が終わった2011年に戻って入居した。だが、ようやく帰ってきた故郷の風景はまったく違ったものになっていた。これまで土を作ってきた400平方mの農地はすでになく、あるのは約30平方mのマンションの一室のみである。数十年も土地を耕して生きてきた農民は、4年を経た今、どんな思いで暮らしているのだろう。
2012年2月、四川省政府は約540万世帯、約1200万人の住宅を建設し、失業問題も解決し、復興事業もほぼ完了したと実質の復興宣言を発表した。華やかな復興宣言の陰に沢山の見えない問題、課題がある。震災から4年を機に今後、少しずつ振り返っていく。
(吉椿雅道)
再建された新北川の街
新北川の観光商店街