引き続き、現地スタッフYさんより、震災から2年が過ぎた四川の様子をお伝えします。
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壊滅的になった北川県城(老北川)は、約20km南東の平場に移転し、今年の9月には基本的な工事を終え、永昌鎮(新北川)という名で新しい北川県城としてスタートする。
一方、未だガレキの下に約5000名の人々の眠る廃墟、老北川は、「北川地震記念館」の名で震災の傷跡を地震遺跡としてそのまま残す計画である。
2周年記念日を終えた5月15日、これまで封鎖されていた老北川県城は、正式に申請をすれば一日1000人を限度に見学できるようになった。擂鼓鎮には接待センターも完成し、遺跡記念館建設の全体図も展示され始めた。
計画では、エリアを3つに分け、①県城遺跡エリアでは、222棟の倒壊した建物は保存レベル別に分け、そのままの形で残される。②記念館エリアでは、手前の北川中学のあった一帯に「地震記念館」を建設する。そして③二次災害展示エリアでは、地震後の塞き止めダム湖と土石流発生エリアである。この地震遺跡は約500haの面積になり、周辺の山間部の調整エリアも含めると全体で約3500haの規模になる。四川の被災地ではこのような大規模な記念館はここ北川のみで、地震遺跡としては他に映秀(?川)の震源記念地、漢旺(綿竹)の工業遺跡記念地、虹口(都江堰)の地震遺跡記念地の3つが計画され、すでに着工している所もある。
多くの被災者は地元での仕事は少なく、多額のローンを返済していかなくてはならない。様々な復興事業とその後の新しい街、施設で働ける被災者は決して多くはない。被災者の息遣いの聞こえるような暮らしの復興が求められる。
月別アーカイブ: 2010年5月
中国四川省地震救援ニュース101
引き続き、現地スタッフYさんより、震災から2年が過ぎた四川の様子をお伝えします。
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廃墟と化した北川県城を見下ろす「望郷台」でお土産を売り、写真を撮って生計を立てるPさんは、いつも笑顔と握手で迎えてくれる。最近、体調を崩していたようで久しぶりに会って、二人でゆっくりと話す事ができた。
Pさんは、「この場所ももうすぐ終わりだな。」と肩を落とす。現在、北川県城では地震遺跡に向けて工事が進められているが、2周年を過ぎ、一般の見物客にも開放され始めた。これまで多くの見物客はこの望郷台で北川県城を眺め、追悼して、お土産を買って帰っていたが、県城が開放されると今後、望郷台に行く人はいなくなるのは必至である。
「中ではお土産売りはできないだろうな。せめて写真撮影の仕事でも出来ればいいけど。」と将来の不安を隠せない。「もし、だめだったら土方仕事でも何でもするつもりだが、もうこの歳じゃ、どこも雇ってくれないしなあ。田畑を耕せば食べるぐらいは出来るけどだろうけど。」と語るPさんだった。
Pさんは住宅再建で、4万元の借金をした。だが、期限の過ぎた今も返済できないでいる。「返済できる人なんてわずかだよ。」という。政府は住宅の97%が住宅再建を終えたというが、「そんな訳ないよ。見てみろ、あの集合住宅だって1年近く工事しているが、未だ完成してないだろう。」と向かいの山の斜面には再建中の住宅群を指さした。「1年前に始まったトンネル工事だってたった100mしか掘れていないんだ。」と賃金が払われずに労働者がいなくなった事を教えてくれた。対口支援で派手に進む復興事業とは違う現実がここにあった。
中国四川省地震救援ニュース 100
現地スタッフYさんより、震災から2年が過ぎた四川の様子をお伝えします。
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中国では四川大地震を「5.12ブン川大地震」と呼ばれているが、「北川大地震」と呼ぶべきだという被災者も多い。最も多くの被害を出した北川県城は、人口3万人のうち、約2万人が帰らぬ人となり、未だ約5000人がガレキの下に眠ったままである。08年6月の塞き止めダム崩壊による水害、08年9月の土石流も発生し、ずっと封鎖されたままで、一部関係者のみ立ち入り禁止である。今年も5月12日には一般に開放されたが、昨年の30万人ほどの人出はなく、約8万人ほどだったという。
通常、中に入れない被災者の人々はいつの間にか高台から見下ろせる場所「望郷台」から故郷を想うようになった。「望郷台」では、今も被災者の人々によって地震の写真、DVD、チャン族の工芸品などのお土産が売られている。そして、ここは被災者によって「沈痛悼念5.12遇難同胞」と書かれた追悼碑が建てられ、いつの間にか「祈りの場」となっている。追悼碑のそばには線香とロウソク、紙銭が置かれており、志しを払ってお参りする。僕も何度となくここに立ってささやかな祈りを捧げさせてもらった。
だが、2周年を前にここにあったすべての追悼碑やお土産の屋台は地元政府によって取り壊された事を知る者は少ない。顔見知りのお母さんは、「こんな事をするなんて。。。」と目を真っ赤にしていた。たまたま参拝に来ていた大学生にこれを見て、どう思うか訊ねてみると「心が痛む。。」と言って、じっと壊された碑を見つめていた。
2周年を過ぎた今、人々は再び、お土産屋台を再開し、碑のなくなった場所には祈りの線香が絶える事はない。復興のスピードがますます加速する中、被災者の人々はこんな現実を生きている。
中国四川省地震救援ニュース 99
震災後2年を経た光明村から、引き続きYさんのレポートをお伝えします。
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あの大地震から2年を経た今、被災者の思いもそれぞれだ。
直後から支援している光明村のDさん(60代女性)は2周年のこの日、村でひとり静かに食事をしていた。僕らが訪ねて行くと、嬉しそうに食事を出したり、果物でもてなしてくれた。僕が、「あれから2年だね。何人かの村人は、北川県城に行ったみたいだね。」と言うとDさんは、「色々と思いだすから私は行かないわ。。。」といい、当時の様子を少し語ってくれた。
5月12日、光明村の芸能部である「老年活動センター」の一員であるDさん達5名は、自らの芝居や踊りを披露する為に北川県城へと向かった。衣装にも着替え、さあ、これから自分達の出番という所で大地が激しく揺れた。何が何だか分からずに、命からがら建物から飛び出したDさんは、背中から右腕にかけて怪我を負った。混沌とする中、乗せてくれる車もなく、5時間かけて山を越えて光明村へと帰った。村にたどり着くと見渡す限りの家がガレキと化し、失意のどん底にあったそうだ。
直後に光明村でボランティアが、ガレキの片づけを行っていると「あそこのお母さんは一人暮らしだから手伝ってあげて!」という声がかかり、Dさん宅の倒壊した厨房や豚小屋の片づけが始まった。連日、暑い中黙々と汗を流し、自ら持参したカップラーメンを食べるボランティアの姿を見たDさんは、「そんなもの食べていたら体壊すよ!私がご飯作るから食べなさい!」と言う。申し訳なく思ったボランティアは毎日、断り続けるのだが、とうとう根気負けしてDさんの作ってくれた美味しいお粥を食べる事になった。それから毎日、ボランティアの若者達が来るのを楽しみに食事を作るDさんの姿は沢山の事を教えてくれた。
09年3月光明村で行った「中日友好コンサート」を行った際に、Dさんは「小品」と言う芝居を見事に演じた。「あのDさんがこんなに役者だったなんて!」と感動した事を今も覚えている。老年活動センターの5人と共に舞台に上がったDさんは、上述のような当時の様子を話し始めた。その姿はまさしく「語り部」の姿であった。Dさんは当時の思いを胸に抱えながらひとり静かに暮らしている。
中国四川省地震救援ニュース 98
震災2周年となる5月12日の光明村から、Yさんのレポートをお伝えします。
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2010年5月12日 14時28分 この2年間通い続けた北川県光明村で静かに黙祷した。
この日、四川テレビでは朝から特番で北川県城、綿竹市漢旺鎮、青川県、彭州小魚洞、都江堰などの重被災地では、再建された綺麗な町並みやモニュメントを背景に記念式典が執り行われる姿が映し出されていた。
昨年の1周年の際は、北川県城に入り、沢山の遺族の方々が追悼する中、ひとり合掌させてもらった。3日間開放された北川県城は、約30万人が追悼に訪れ、途中の道は3,4時間の渋滞になるほどのにぎわいであった。
2周年の5月12日も地震後、一緒に活動したボランティアの仲間と共に北川県の光明村へと向かった。中央政府や対口支援先の山東省の政府幹部が北川県城での追悼式のために通行規制や渋滞を予想していたが、全く渋滞もなく、スムーズに光明村へとたどり着いた。村はいつもよりどこか静かな感じだった。田んぼで田植えにいそしむ人々、北川県城に追悼に行った人々、いつもと同じようにのどかに暮らす人々など人それぞれであった。
村の医師、Pさんはいつものように笑顔と握手で僕らを迎えてくれ、共に食事をした。地震後に生まれた孫のXくんの遊ぶ姿を見て嬉しそうに笑うPさんの笑顔を2年前、地震直後にはとても想像できなかった。地震の1年前に建てたばかりの4階建ての自宅兼診療所が倒壊し、「自分の命に代えても家を守りたかった」と後にこぼしたPさんは、自分も被災者であると同時に医師として必死に村人の看病に奔走した。その後、張り詰めた糸が切れるかのように鬱になりかけた。そんな時、僕らボランティアがやってきた。最初は警戒していたPさんも次第に心を開き、共に汗を流すようになった。今では、僕らの一番の理解者のひとりである。
診療所を失い、暑い夏も寒い冬もずっとテントで診療していたPさんは、その後、住宅再建が進むにつれて空き屋になっていく仮設住宅の一室を借りて診療所を開いていた。だが、数日前にその仮設住宅も撤去された。震災を思わせる仮設住宅をいつまでも残しておく事はできないという事らしい。診療所の薬品は補修した家の片隅に置かれていた。
今後、政府によって再建される「総合活動センター」に診療所が入るかどうかも未だ決まっていない。当然、自力で診療所を再建する経済的な余裕もない。
これがPさんの「震災2年」の現実である。テレビから映し出される派手な復興の様子と光明村な静けさが対象的であった。
中国四川省地震救援ニュース 97
四川大地震から2年、先日成都に戻ったYさんからレポートが届きましたので、お伝えします。Yさんは、今日は光明村に行って、村人と2年のこの日を過ごすそうです。
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2008年5月12日14時28分 M8.0の巨大地震が四川省を中心に襲った。
あれから2年の月日が流れた。昨年の1周年の際、温家宝首相の発した「復興を加速せよ」という言葉を受けて、急ピッチな再建工事が被災地の至る所で行われている。そのスピード、規模は、今の中国の勢いを象徴しているかのようである。本来、復興計画では3年を目途に住宅、学校、病院、道路などの基本的な社会基盤の復旧を実現するという事であったが、前述の首相の言葉で1年前倒しにして2010年の9月末までに基本的な復旧事業を完了させなくてはいけない。2月の旧正月の際も多くの労働者は帰省もせずに工事に従事した。被災地の中でも最も大きな被害を出した山間部の北川県城(北川県庁所在地)は、断層の上で危険であるという事から元の場所での再建をあきらめ、約20km平場へと移転する事になった。現在、大規模な「新北川」の町を建設中である。巨大な復興事業によって雇用が生まれているが、工事現場で働く人々のほとんどは対口支援先から来た人々である。ハイチのような「Cash for Work」で収入を得る被災者は、四川ではほとんど見られず、震災前と同じように遠くに出稼ぎに行く人々も多い。
政府の発表では、すでに90%以上が住宅再建を終え、入居したという。だが、ほとんどの被災者は迫りくるローンの返済期日に焦りの色を隠せない。農村信用社から借りたお金(最大5万元)を1年目で15%、2年目で35%、3年目で50%返済しなくてはならない。それを過ぎると利子が発生する。08年9月の住宅再建からすでに1年8カ月が過ぎている。未だにローンをどうやって返済しようかと頭を抱える人々も多い。そして、未だ数万世帯が、行き場が決まらず、仮設住宅や掘立小屋で暮らしている事を忘れてはならない。
未だビニールシートの掘立小屋で暮らす什?のある村の被災者の女性がこう語った。「あなたが来年来ても私たちはきっとこのままよ。」
2010年に入ってから世界で立て続けに起きる震災。4月には青海省でもM7.1の地震が、約2300人以上の尊い命を奪った。だが、日本では1か月を待たずに報道はほとんどなくなった。
四川大地震から2年目のこの日を機に今一度、被災地に思いを馳せてみてよう。ハイチへ、チリへ、青海へ、そして四川へも。あらためて震災で亡くなった方々のご冥福をここ四川の被災地で祈る。
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