Yさんレポートで、地震1年の被災地の模様をお届けします。
————
2009年5月12日 14:28 ここ四川の被災地の多くの場所で沢山の人々が黙祷と追悼の念を捧げた。震源近く映秀鎮の?口中学校では、倒壊した校舎の前で胡錦濤主席ら国家級の人々が追悼の儀式を行った。綿竹の漢汪鎮や青川県などの被害の大きかった被災地はもちろん追悼の式典が行われたが、成都市内の天府広場にも多くの人々が自然発生的に集まって追悼したという。
約1万人2000人以上の方が亡くなった北川県城でもこれまで封鎖されていたゲートが開かれた。僕も前日の11日に北川県城に入る事が出来た。昨年の5月17日以来、約1年ぶりであった。5月の地震で廃墟と化した町に6月の塞き止め湖の氾濫と9月の土石流で埋まった家屋、車などがまったくそのままの状態で無残な姿であった。町の数か所に追悼の断幕や参拝の場が設けられ、この日は沢山の遺族がここを訪れ、線香、ろうそくが灯され、花が捧げられてあった。1階が潰されたビルの前にはひっそりと線香の煙が立っていた。被災地で約1万7000人の方が未だ行方不明と言われている。家族の亡骸を見ることも出来ずに、未だ死を受け入れられないのも当然だとその線香を見て思った。
町の中ほどを歩いていると大きな泣き声が聞こえてきた。水で流されたであろう木材やガレキの山の前に女性が泣き崩れていた。抑えきれない悲しみから石をガレキの山に向かって何度も何度も投げつけていた。どうやらご主人や子供さんを亡くされたらしい。ある日突然、家族を失った悲しみは1年経ったところで到底癒されるものではない。
CODEの支援する光明村の多くの人々も12日はそれぞれの思いを胸に北川県城へと向かった。この日の村は誰も居ず、とても静かであった。あの日から1年、北川県城を追悼に訪れた人は約27万人だという。