北川県光明村では四川大地震で4,5組のほとんどの家が被害を受けた。9月より住宅再建が進んでいるが、5組では、三十数年振りに伝統構法の木造住宅が再建されている。
先日、一軒目の木造住宅の棟上げ「上梁」が行われた。村の大工によって加工された柱や梁をある程度組み合わせた段階で皆で立ち上げる。男性は梁に上がり、木槌で柱と梁を叩いて組み、女性は下でロープで柱を立ち上げる。子供は爆竹や願いの赤紙の準備し、高齢者たちは周りでそれを見守る。この日だけは、隣でレンガ住宅を再建している人々も手伝う。村長、組長、子供、女性、お年寄りたち、5組の住民総出で「ああでもない、こうでもない」という感じで家を組み上げていく。普段あまり家の事を手伝おうとしない息子さんも一生懸命働く。様々な願いの書かれた赤い紙を柱に貼った後、家の四隅に線香が立てられ、この家の持ち主であるLさん、Xさん夫婦と息子の3人を前に村の長老のような方から何やら文言を唱えられる。そして家の中心である赤い布の巻かれた梁が厄除けの爆竹の爆音と共にロープで引き上げられた後、日本のモチまきのようにキャンディーやクルミ、豆などがまかれて「上梁」が終わる。その後、参加した村人を招いて宴会が行われる。
30年振りに行われた「上梁」。光明村に通い始めて7カ月、初めて「文化」というものを垣間見た気がする。このようにして光明村の人たちはいざという時に助け合いながらずっと生きてきたのだろう。木の家を建てるという事は、ただ単に住宅再建をするという事だけではない効果を村の人々にもたらしたに違いない。
月別アーカイブ: 2009年2月
中国四川省地震救援ニュース 85
不定期になりますが、Yさんレポートを続けます。
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CODEが、地震発生後の5月からこだわって活動いている北川県の光明村。1組から5組まで約730人が暮らす。と言っても通常は、若者、男性などの働き手は、他の省へと出稼ぎに出ていて村にいるのは女性、高齢者と小学生以下の児童が大半である。
その村で唯一の医者であるPさん(56歳)は、去年の1月に十数万元をかけて建てた4階建ての家屋は、この地震で全壊状態になり、今は1,2階のみが辛うじて残っている。またPさんの田んぼは地震によって水が抜けた。Pさんは、地震後、怪我や体調不良の村人のために必死で治療にあたっていた為に思うように田んぼに手を掛けることができずに今年のコメの収穫はほとんどなかった。今は、6月から3か月間政府によって支給された米を食いつぶしている。また、医者としての責務を全うするあまり鬱にもなりかけた。
そんなPさんは、ボランティアとガレキの片づけをやる中で少しずつ元気を取り戻していった。今では僕らボランティアとは、村で一番の仲良しである。つい先日、息子さんからこんな地震直後の会話を聞いた。
息子 「大丈夫か?」
Pさん「俺は大丈夫だけど家が。。。」
息子 「命が助かっただけよかったじゃないか!」
Pさん「俺の命に代えても家を守りたかった。。。」
息子さんの横で当時を振り返りながらPさんは目に涙を浮かべていた。
村内で住宅再建の進む中、未だ住宅のローンが残っているPさんは、新たに借金をして住宅を再建しなくてはならない。「自分の命に代えても守りたかった」と言うほどにPさんにとって家は掛けがえのないものだったに違いない。