7月26日からスタッフの吉椿が青海省の被災地に入っています。
2010年10月以来、約1年10ヶ月ぶりとなります。
1年のうち7~8カ月が冬に閉ざされるこの地で、地震から2回目となる春・夏シーズンを迎えました。
CODEはこれまで現地NGOなどと情報交換を続けてきましたが、今回、より具体的なプロジェクトの調整を行う予定です。
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青海省地震レポート34 2012年7月26日(木)
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青海省の省都、西寧から夜行バスに揺られて800km、約20時間の被災地の道は遠い。途中、標高5000m近くを通ると高山病の症状である頭痛と吐き気を催してくる。約1年10ヶ月ぶりに青海省地震の被災地、玉樹を歩いた。被災地最大の町、結古鎮は、僕の記憶にある以前の町並みはまったくなかった。
町中では、あちこちに聳え立つクレーンと建設中のビル群。町のいたるところで再建工事が行われている。町を行き交うトラックと重機が巻き起こす砂埃の片隅でテントでひっそりと商売を営むチベットの人々。「こんな埃の中にいたら体悪くするな」と思った。だが、人々は生きていくためにそんな事はまったく気にしていない様子だった。被災地の人々は本当に逞しいといつも思う。
あまりにも変わり果てた町で、泊まる宿や食堂、ネットカフェ、以前出会った被災者の人を探すのにも手間取った。
以前、瓦礫のそばで暮らしていた被災者の人々は再建のために郊外へ仮の住まいを求めて出ていった。今、町にあるテントはほとんど工事関係者の人のものだった。
「お母さん、地元の人?」と尋ねると、「いやいや、四川省から出稼ぎに来たんだよ」とあちらこちらで同じような答えが返ってくる。四川地震の後もそうだったが、これだけの大規模な復興事業がありながら、地元のチベット人の被災者を雇用する機会が少ない。被災者のための住宅の再建も始まっているが、そこで働くのはやはり雇われた人々だ。自分の家を自分で再建できれば、どれだけその後の勇気や力になるだろうにと被災地を歩きながら思った。
3700mの被災地より 吉椿雅道
「日記」カテゴリーアーカイブ
青海省地震レポート32
今日4月14日、中国・青海省で起きた大地震から1年が経ちました。
改めて、亡くなられた方のご冥福をお祈り致します。
日本では報道されることもほとんどなくなりましたが、
未だ多くの方がテントで暮らしておられます。
テント生活の中でも、たくましく「暮らし」を営んでいる人々の様子をお伝えします。
吉椿雅道のレポートです。
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青海省地震1周年レポート
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2010年4月14日7時49分 M7.1の地震が青海省玉樹チベット族自治州を襲った。
死者2698人 行方不明270人 倒壊家屋1万5000棟以上 被災者約24万人(青海省
政府発表)という被害を出した。
あれから1年が過ぎた。
11日、中国の報道では、朝7時49分の各地での黙祷の様子やモデル地区である禅
古村、甘達村などで新しい家屋に入居する被災者の姿が流れているが、再建された
のは、広い被災地のほんの一部である。
1年を経た標高3700mの天空の被災地は、年の8カ月が-20℃の厳しい冬に閉ざさ
れ、2010年10月頃より再建工事も中止せざる得ない状況となり、中心の町である結古
鎮は、政府によって冬の間にガレキの撤去が進められ、病院、学校などの一部の施設
の再建工事は始まっているが、多くは、一面の空き地が広がったままである。
被災者の多くは、地震直後より結古鎮から数キロ離れた寨馬場(夏の祭りで馬の
レースを行う草原)にテントを張り、避難生活を送ってきた。結古鎮の中心部でも倒壊し
た自宅のそばにテントを張って暮らしていた人々も、昨年10月より町の再建工事やガ
レキの撤去が始まる事を理由に寨馬場へと移動せざるを得なくなった。その為、避難
キャンプである寨馬場は張る場所さえないくらいに無数のテントでいっぱいた。今では
避難キャンプが、ひとつの町のようになっている。寨馬場には、タバコや酒などの日用
品の売店や四川料理のレストラン、回教徒の為のムスリムレストラン、バター茶でもて
なしてくれるチベット風カフェ、携帯電話の店など暮らしに必要なものがすでに揃って
いる。四川大地震の仮設住宅でもそうであったが、被災者自らがそこでそれまでやって
いた商売を始める。その為に仮設住宅や避難キャンプに活気がある。
また、玉樹を有名にしている冬虫夏草とチベット犬(チベッタンマスチフ)、そしてヤ
クである。5月からの冬虫夏草採取に向けた準備、産まれて間もないチベット犬の飼
育、ヤクの交配など冬の間じっとしていたチベットの人々は、春から再び動き出す。彼
らにとって復興とは、このような日常の暮らしを取り戻す事である。
1年を経ってもなおテントで暮らすチベットの被災者の人々。避難キャンプの中でも
民族文化や彼ら独自の暮らしを大切にしている。そしてチベット仏教の世界に生きる
人々は、今日もいつもと変わりなくマニ車を廻して祈り続ける。その祈りは東日本大震
災の被災地へきっと届いているだろう。
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玉樹から約20kmの称多県というところでも大きな被害が出ました。
多くの学生が亡くなった小学校の辺先生という方から、
東日本大震災の被災者の方々へ次のようなメッセージが届きました。
兄弟姉妹へ
私達の同じような災害を経験し、同じような涙を流しました。私達は一度絶望に陥り、
一度希望も消え失せました。でも、私達の心は、この震災で却って人を思いやる愛の
心の光に明るく照らされ、再び立ち上がる勇気に火をともし始めました。
被災家族の皆さんへ
私達は悪夢を乗り越え、涙を拭いました。私達の明日が美しく、皆さんが愛と共にある
事をどうぞ信じてください。
称多県小学校 辺軍
青海省地震レポート28
チベット人の死に対する向き合い方には非常に学ぶ事が多い。
死者の書「バルド・トドゥル」についてはレポート18でも書いたが、チベットでは人が亡くなると、僧侶が死者のそばで7日毎に法要(モンラム)を行う。死者の魂が成仏すると言われる49日目まで法要は続けられる。人が亡くなったら葬儀をして終わりではない。現代医学で言う「心停止」というものが、チベットでは「死」ではないのである。
6月5日、玉樹の天葬台で49日法要の最終日をたまたま過ごす事になった。
玉樹では、人が亡くなると旧市街の丘の上にある天葬台で鳥葬(天葬)で葬られるのが、通例であるが、この震災では亡くなった方が多い事や感染症などの諸事情により、この天葬台で火葬にされた。この日、この天葬台では、結古寺(ジェグ・ゴンパ)など宗派を超えていくつかの寺院から僧侶たちが集まって死者のために読経をあげた。それを聴くために沢山の遺族も集まり、マニ車を廻す人、寝そべるように低頭して読経に耳を傾ける人、各々の祈りの姿が見られた。火葬する為に掘られた穴(抗)のそばでは、その場から離れようとしない遺族やひたすら五体投地で祈りを捧げる老婆の姿が今も目に焼き付いている。また、活仏(高僧の生まれ変わり)に手を合わせながら喜捨をする遺族の顔には、どこか安堵のようなものさえ感じられた。
いくつかのテントでは、ヤクのバターで作られた灯明の火は絶える事なく、灯し続けられた。どうやらこのバターは被災者のひとりひとりが持参してきたもののようで、その横では沢山の遺族によって灯明の芯が作られていた。僧侶だけでなく、被災者自らが当然のようにボランティアとして法要を支える姿がそこにはあった。チベット人はこうやって「死」のそばにいる事でいつか来る「死」への準備をしているように見えた。チベットでは、暮らしの中に仏教がしっかりと息づき、「死」といかに向き合うかを仏法が教えてくれている。
青海省地震レポート27
被災地、玉樹の特産品は漢方薬材の「冬虫夏草」である。レポート12でもお知らせしたようにチベット全体の現金収入の約40%を占めるほど、チベット人の生活には欠かせないものの1つである。
1年うち5月から6月の約40日のみが採集期であり、震災後から被災者のチベット人たちは、テントでの避難生活を送って来たが、多くの被災者が山を目指す。
僕らが玉樹を訪れた6月初めは、まさしく採集の最適期であったため最大の避難キャンプでもそれほど多くの被災者の顔を見なかった。確かにキャンプにいるのは、高齢者や幼い子ども達が多かったように思う。「家族は皆、虫草(冬虫夏草)を採りに山に行っている。6月末まで帰って来ないよ。」、「今は皆、山に行っているからいいけど、帰って来たらテントに寝る場所がない。」という声をよく聞いた。また、結古鎮の路上では、あちらこちらで臨時の市が立つ。虫草を採って来た遊牧民やバイヤーとの間で形、大きさ、鮮度などの品定めが行われ、売買される。
玉樹のチベット人は、だいたい7歳ぐらいになると親に連れられて虫草を採りに山に入るという。簡易なテントとツァンパ(麦焦がし)などの食料のみの装備だけの採集の旅である。6月といえど標高4500から5000m近いところでは雪は降り積もり、時に死者も出るという。だが、この40日間で1年分の収入を稼ぐために家族総出で山に這いつくばって必死に虫草を探す。きっとここで子は親から山での生きる智恵を伝授されるのであろう。そしてチベット人という誇りも身につけていくのだろう。虫草の採集のために子ども達は毎年、この時期が学校の休みになっているという。チベット特有の暮らしを大切にした生活のありようがうかがえる。このようにチベットの自然、暮らしに寄り添った復興が切に望まれる。
青海省地震レポート26
チベット人は仏教を深く信仰している。
玉樹州結古鎮のシンボルでもある結古寺(ジェグ・ゴンパ)は、チベット仏教サキャ派の寺院で街の北東の丘の上に位置し、街のどこからでも見る事が出来る。このシンボルも地震によって大きな被害を出した。
僧侶が8名亡くなり、本堂や静修院(瞑想などを行う場所)も倒壊し、約500人の僧侶の住む僧坊も至る所に亀裂が入った。今後、使用する事は不可能である。この結古寺の僧侶はいち早く、街に降りて、ガレキの中から生存者の救出、物資の配給、犠牲者の葬儀など被災者の救援活動を精力的に行った。
僕らが結古寺を訪れた時、僧侶達は倒壊した寺院から持ちだした仏像や法具などをプレハブの仮設に運んでいた。このプレハブは広東省のライオンズクラブ(獅子会)の寄贈されたもので、本堂と周囲にコの字型の僧坊がプレハブが僧侶自らの手で建設されている。この日、仮設の本堂では「砂マンダラ」が僧侶達によって制作されていた。僕らは幸運な事にこの制作過程を見る事が出来た。一人の僧侶が経典に記された通りの色を指示し、沢山の僧侶の手によって下書きの通りに色砂が盛られ、その上にまた違う色砂を盛ってデザインされていく。様々な色に彩られて非常に美しい砂絵が出来あがっていく。
完成した5つの「砂マンダラ」は、15日間展示して被災者に参観してもらった後、取り壊し、この色砂を被災者に分け与えるという。
この「砂マンダラ」は、須弥山世界(仏教の宇宙観)を表し、通常、完成した瞬間に取り壊される。永遠なるものはない。諸行無常を表しているという。
被災して間もないこの時期に何よりも先に「砂マンダラ」を作る僧侶たち。
寺は「砂マンダラ」で被災者に喜びや希望を与える。そして被災者は寺を支える事で自ら元気になっていく。まさに支え合いの中でチベット仏教は脈々と受け継がれてきた。
信仰深いチベット人にとって仏教や寺は暮らしの一部になっている。
青海省地震レポート25
玉樹で活動するボランティアも様々な思いを持って被災地に駆け付けている。
Wさん(30代後半 男性)は、地震発生直後からNGOのテントを拠点にボランティア活動を行っている。元々、西安で麺職人をしていたが、何らかの事情で仕事を辞め、休養を取っていた時に地震が起きた。たまたま時間のあったWさんは、玉樹へボランティアに行こうと思ったという。僕らが出会った時にはすでに避難キャンプのテントで50日以上寝泊まりしており、顔は真っ黒に日焼けして、地元のチベット人かと見間違える程であった。
「俺は何の専門もないけど。。」というWさんだが、最近はキャンプの被災者から「太夫(医者の意)」と呼ばれている。毎日、怪我や病気の被災者の住むテントへバイクを走らせ、薬の交換などを行っている。「ここに来た時は医療の事なんか全然分からなかったけど、少しずつ薬の事も分かってきたよ。薬の交換ぐらいなら俺でも出来るから。」とWさんは言う。
ある日、Wさんは、いつものようにバイクで薬を届けた帰りに、ある男性に呼び止められたそうだ。バイクの薬箱を見たその男性は、Wさんを引っ張るように自分のテントへと連れて行った。そこには足の怪我で寝たっきりの奥さんがいた。奥さんに何か薬がないかという事だったが、チベット語のまったく分からないWさんは、その後、通訳を連れて出直した時にその家族の置かれている状況が初めて分かって驚いたという。
その男性は、9人家族で、3人の子どもはこの地震で亡くなった。その男性1人分の被災証明書で支給される義捐金(1日10元)と食料(1日500gのお米)で残った家族6人が生活しているという。玉樹に戸籍を持っているのはこの男性のみで、他の5人はここに戸籍がない為に被災証明書がもらえない。皮肉な事に亡くなった3人の子どもは、3年前に就学などのために戸籍を買ったばかりだったという。また、文字の読めない男性は政府の発行する書類や支援に関する情報が分からない。戸籍が玉樹になくても被災証明書をもらった人もいる。政府補助の情報がこの男性のように末端まで届いていない事の証でもある。この男性は、これまでたった一人苦しい思いを胸に秘めていたのだろう、目に涙をいっぱい溜めて堰を切ったようにWさんに語ったという。
Wさんは自分達のテントからそれほど遠くない場所でこんな現実があった事に驚いたという。Wさんは、「俺たちボランティアには大した事はできないけど、目の前の事を精一杯やるしかない。」と最後につぶやいた。
青海省地震レポート24
被災地、玉樹の最大の避難キャンプでは、中国のNGOやボランティア達が、地震の発生直後から活動している。四川の被災地でつながったNGO「関愛生命万里行」のボランティア達は、僕らにテントや食事などを快く提供してくれた。その現地代表のM氏に話を聞いた。彼らは、地震発生の3日後からボランティアの医師と共に医療活動などを行ってきた。
M氏は、心理ケアの専門家でもあるが、現在は医療活動、子供のケアに留まらず、何でも屋のように駆け回っている。時折、拠点のテントに被災者がM氏を訪ねて来ては、被災証明書などの情報について相談する。
四川での活動経験もあるM氏は、「四川の時より条件が悪い。」と言う。多くの被災者は固定の仕事を持っていない事、チベットでは文化も言語も違う事、仮設住宅を建設しない事、6月の段階でもテント(夏用)を配りきれていない事、9月から冬になる事など自然条件から生活条件まで課題は多い。
翌朝、避難キャンプを歩いてみた。キャンプ内を流れる小川のそばを歩いている時にある光景が目に入ってきた。十数人の人々が川の両側に土のうを積む作業を行っていた。まさか、と思って、被災者の方に聞くと「夏場には集中的に雨が降り、川が増水するからなあ。」と返って来た。小川と言っても、川幅3~4メートル、水量は多く、流れも速い。土のうを積んだくらいで大丈夫なのかと首を傾げたくなる。
避難キャンプでのこれらの課題に対して「政府はどう対応しているのか」とM氏に尋ねると「地元政府に相談しても、逆にどうしたらいいか聞かれる。」というくらい対応策が未だ見えていないようである。
9月になると被災地に冬が来る。政府の発表では、冬用のテントや暖房器具を配布すると言っているが、未だマネジメントしきれていない状況で、このキャンプに暮らす数万人の被災者に均等に届くのだろうか。。。
青海省地震レポート23
数千張りのテントのある最大の避難キャンプである競馬場(草原)では、中国のNGOやボランティアもテントで拠点を作り、活動を行っている。医療、心のケア、子供のケアなど様々だ。
キャンプ内を歩いているとボランティアらしき青年とチベットの子どもたちが遊んでいるのを見かけた。看板には「愛100 玉樹青少年空間」と書かれてあった。ニーハオと声をかけると座っていかないかと返してくれた。
話を聞いてみると、二人の男性は四川省の綿陽市から来たという。2年前の四川大地震の被災地である。まだ20代と思われる青年も被災者のひとりで、ボールや将棋などの遊び道具を持って、友達と一緒に四川から来たそうだ。 テント内で読書や将棋をしたり、簡素なグランドで、バスケットボールやサッカーをしたりして、子ども達の「遊び場」を提供している。真っ黒に日焼けして、鼻水を垂らすチベットの子どもたちは彼らの事を「老師!」(先生の意)と呼んでいた。「あの時、沢山のボランティアが活動しているのを見て、いつか自分もやろうと思ったんだ」と語る青年の言葉は印象的だった。
その他、キャンプで活動しているNGOも多くは、四川での経験を経てここにやってきている。僕らがお世話になったNGOやボランティア達も、2年経った今でも四川で地道に活動している。四川地震直後、被災地で共に汗を流したボランティアたちが、また玉樹で再会するという現象が起きている。四川大地震の際、ボランティア元年と一部で言われていたが、彼ら、彼女らが握手で再会を喜んでいる姿を見ると四川から青海へと確実にボランティア文化が中国にも根付きつつある事を実感する。
青海省地震レポート22
4月14日に青海省玉樹州を襲ったM7.1の地震は大きな被害をもたらした。州の中心である結古鎮やその周辺の郷鎮の被災者の多くは、結古鎮郊外の大草原にテントを張って暮らしている。ここは、夏の最大の祭りである「康巴(カムパ)芸術祭」の開かれる場所でもある。「救災」と書かれた数千張りの青いテント群が、数キロある草原を埋め尽くし、山の斜面でさえも見渡す限りの「青」である。聞くと、ここにどれだけのテントがあり、どれだけの被災者の人々が暮らしているか、正確な数字を政府やNGOも把握していないという。政府または、NGOによってマネジメントされていない避難キャンプでは、人を探すのもひと苦労だ。実際に地震直後に沢山の被災者がここに避難してきたが、家族、親戚に会えずに苦労したそうだ。一カ月半を経たキャンプでは、少しずつではあるが、家族や同郷の人々同志が、同じエリアにまとまって暮らしつつある。
約100km近郊の称多県出身のAさん(40代男性)は、家族5人でこの草原に避難してきた。2つのテントを利用し、1つのテントには元の家から運び出したテレビや冷蔵庫、ストーブを綺麗に配置して暮らしている。娘達を結古鎮の学校に通わせていた事からAさん達は、数年前、結古鎮に中古の家を買って暮らしていたそうだ。被害を受けた写真を僕に見せてくれた。現代風な家屋で至る所に亀裂が走っているのが分かる。「もうこの家は使えないなあ」と肩を落とすAさん。今後、どうするのかと聞くと、「まだ分からない。家は政府が建ててくれるらしい。しばらくはこのテントで暮らすしかないなあ。。。」と語った。
四川大地震の時と同様に中国政府と青海省政府は、一人当たり1日10元の義捐金と500gの米を配布しているが、Aさん家族は、り災証明書(災民証)はもらったが、義捐金はまだ受け取っていなかった。実は、Aさんのすぐ隣のテントの7人家族は、たった1つのテントで暮らしていて、2人は地べたに寝ているという。
直後から活動している中国人ボランティアWさんの言った言葉が今も忘れられない。「若者など力のあるものが、テントや食料を持っていて、高齢者のような弱い人々には何もない。」
地震直後に物資を見境なく配った事による弊害が今も影を落としている。やはり、この最大の避難キャンプが政府やNGOなどによってしっかりとマネジメントされなくてはならない。
青海省地震レポート21
7月14日、青海省地震から3カ月が経った。日本のメディアもわずかではあるが、被災地の現状を報道した。「誰がどこに入るのか決まっていない」、「今までの集落がバラバラになる」などの声も報じられた。(7月14日 北京共同通信)
6月初め、僕らが玉樹を訪れた際にも同じような声を聞いた。
玉樹の旧市街地、普セキ(てへんに昔)達巷は、なだらかな丘にへばりつくように一戸建ての住宅が集まっている。このあたりは、まともに残った家がほとんどないほど一面のガレキとなり、約150戸のうち、約30人が帰らぬ人となった。ここに暮らすKさん(40歳 女性)は、8年前に建てた家が全壊し、敷地にテントを張って家族3人と親戚で身を寄せ合って暮らしている。地震の際、生後33日の子どもと共に生き埋めになった。その後、救出してもらった時、赤ちゃんの息はなかったが、人工呼吸でかろうじて一命はとりとめた。今後の話を聞くと、「再建計画によっては、ここを移動しなくてはならない」とどこか割り切ったように語るKさんだが、「この土地は父母が残してくれた土地だから。。。」と本音もつぶやく。
玉樹を去る前日に再び訪ねた際、軍によって周辺の家屋のガレキが一気に撤去されようとしていた。ガレキの撤去が始まったらどこに住むの?と尋ねると、「丘の上の空いた所にテント張るよ」と言う。
また再びこの土地に戻ってくる事が出来るのか分からない。また、家族の多いチベット人には、再建後、政府の提供する80㎡の住宅では小さすぎるという声も多く聞いた。
急ピッチに進む復興計画。奇しくも現在、青海省政府の代表団が来日していて、神戸や中越を視察している。是非とも政府の方々には日本の成功事例だけでなく、復興の過程でコミュニティーがバラバラになってしまった事例もしっかりと学んでもらい、始まったばかりの玉樹の復興に活かしていただきたい。