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青海省地震レポート32

今日4月14日、中国・青海省で起きた大地震から1年が経ちました。
改めて、亡くなられた方のご冥福をお祈り致します。
日本では報道されることもほとんどなくなりましたが、
未だ多くの方がテントで暮らしておられます。
テント生活の中でも、たくましく「暮らし」を営んでいる人々の様子をお伝えします。
吉椿雅道のレポートです。
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青海省地震1周年レポート
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 2010年4月14日7時49分 M7.1の地震が青海省玉樹チベット族自治州を襲った。
死者2698人 行方不明270人 倒壊家屋1万5000棟以上 被災者約24万人(青海省
政府発表)という被害を出した。
 
 あれから1年が過ぎた。
  
 11日、中国の報道では、朝7時49分の各地での黙祷の様子やモデル地区である禅
古村、甘達村などで新しい家屋に入居する被災者の姿が流れているが、再建された
のは、広い被災地のほんの一部である。
 1年を経た標高3700mの天空の被災地は、年の8カ月が-20℃の厳しい冬に閉ざさ
れ、2010年10月頃より再建工事も中止せざる得ない状況となり、中心の町である結古
鎮は、政府によって冬の間にガレキの撤去が進められ、病院、学校などの一部の施設
の再建工事は始まっているが、多くは、一面の空き地が広がったままである。
 
 被災者の多くは、地震直後より結古鎮から数キロ離れた寨馬場(夏の祭りで馬の
レースを行う草原)にテントを張り、避難生活を送ってきた。結古鎮の中心部でも倒壊し
た自宅のそばにテントを張って暮らしていた人々も、昨年10月より町の再建工事やガ
レキの撤去が始まる事を理由に寨馬場へと移動せざるを得なくなった。その為、避難
キャンプである寨馬場は張る場所さえないくらいに無数のテントでいっぱいた。今では
避難キャンプが、ひとつの町のようになっている。寨馬場には、タバコや酒などの日用
品の売店や四川料理のレストラン、回教徒の為のムスリムレストラン、バター茶でもて
なしてくれるチベット風カフェ、携帯電話の店など暮らしに必要なものがすでに揃って
いる。四川大地震の仮設住宅でもそうであったが、被災者自らがそこでそれまでやって
いた商売を始める。その為に仮設住宅や避難キャンプに活気がある。
 また、玉樹を有名にしている冬虫夏草とチベット犬(チベッタンマスチフ)、そしてヤ
クである。5月からの冬虫夏草採取に向けた準備、産まれて間もないチベット犬の飼
育、ヤクの交配など冬の間じっとしていたチベットの人々は、春から再び動き出す。彼
らにとって復興とは、このような日常の暮らしを取り戻す事である。
 
 1年を経ってもなおテントで暮らすチベットの被災者の人々。避難キャンプの中でも
民族文化や彼ら独自の暮らしを大切にしている。そしてチベット仏教の世界に生きる
人々は、今日もいつもと変わりなくマニ車を廻して祈り続ける。その祈りは東日本大震
災の被災地へきっと届いているだろう。
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玉樹から約20kmの称多県というところでも大きな被害が出ました。
多くの学生が亡くなった小学校の辺先生という方から、
東日本大震災の被災者の方々へ次のようなメッセージが届きました。
兄弟姉妹へ
私達の同じような災害を経験し、同じような涙を流しました。私達は一度絶望に陥り、
一度希望も消え失せました。でも、私達の心は、この震災で却って人を思いやる愛の
心の光に明るく照らされ、再び立ち上がる勇気に火をともし始めました。
被災家族の皆さんへ
私達は悪夢を乗り越え、涙を拭いました。私達の明日が美しく、皆さんが愛と共にある
事をどうぞ信じてください。
称多県小学校 辺軍

青海省地震レポート31

10月末、青海省の被災地、玉樹に戻って来た。
4か月ぶりの被災地の暮らしは、直後からほとんど変わっていない。変わったと言えば、街中で倒壊したそばでテントを張っていた人々が、避難キャンプに移動している事だった。
6月に会った被災者の人々の住む旧市街地、普棤達巷に向かった。そこはすでにガレキが撤去され、空き地になっているところが多かった。前回、会ったおじさんの家は、全壊には至っていなかったが、すでに跡形もなく更地になっていた。近所の方に聞くと、「そこの人は西寧に家を持ってるからそっちに行ったよ。」と教えてくれた。また、すぐ隣の方は、倒壊を免れた自宅をそのままにしてラサに行ったという。
その後、テントで暮らしている家族にお話を聞く事が出来た。
Aさん(40代男性)は、5000元(約6万7000円)で買った大きめのテントを自宅の敷地内に張り、家族6人身を寄せ合うように暮らしている。地震直後は、政府の指示で寨馬場のキャンプに避難し、その後、空港の避難キャンプに移るなど計4回の引っ越しを経て元の自宅に戻り、テントで暮らしているという。そして再建の準備が始まるので、いずれここを出なくてはいけない。今後の事を尋ねるとAさんは、「先のことはまったく分からないよ。」とつぶやいた。
持てる人はいち早く行き場を見つけ、持たざる人は未だ行き場もなく先の見えない不安を抱え、今を生きている。

青海省地震レポート30

四川省地震の救援プロジェクトで成都に滞在しているYさんが、10月半ばに青海省地震の被災地を訪問れました。6月に続いて二度目となります。そのレポートを数回にわたってお届けします。
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2010年4月14日 青海省玉樹チベット族自治州でM7.1の地震が発生してから半年の月日が流れた。本格的な冬を前に10月下旬、被災地、玉樹を再び訪れた。
身が締まるような寒さとカラカラに乾燥した空気が、標高3700mという高地を感じさせる。最大の避難キャンプである寨馬場(夏の競馬祭の会場)の草原には、6月に訪れた時の倍以上のテントがところ狭しと無造作に並んでいた。聞くと、6月に山に「冬虫夏草」を採取に行っていた無数の被災者が戻ってきた事だけではなく、結古鎮の街中で被災した人々が移動してきているという。「再建工事が始まるから引っ越ししないと」、「今月中に引越ししないと補助金がもらえないから」などの言葉のように、これまで倒壊した自宅の敷地内にテントを張って暮らしていた人々も鎮全体の再建工事でガレキは撤去され、徐々に他の場所へと移動せざるを得ない状況になってきている。
一方で、プレハブの仮設の建物も街中に増えている。至る所に「仮設建てます!」などの広告が張られている。寨馬場の避難キャンプでも、テントの横にプレハブの仮設住宅を建てている被災者の人や、中心部で商店やレストランを経営している人々も仮設を建て、営業している。経済的に余裕がある人は自力で仮設を建て、商売をし、徐々に自分の生活を取り戻そうとしている。
また、ラサや西寧に親戚を頼って、被災地を後にした人々も少なくはない。だが、ほとんどの被災者はテントのみで暮らし、一日何もやる事もなく暮らさざるを得ない。引っ越しで二転三転して、ようやく落ち着いても大してする事もなく、先の見えない不安ばかりが頭をよぎる。震災から半年、格差がはっきりしてきた。

青海省地震レポート29

「俺たちに心のケアは要らない。俺たちには仏教がある。」
震災後にある中国人の心のケアの専門家に対して、現地で十数年活動しているNGOのチベット人が語った言葉である。
2008年5月の四川大地震後、中国でも心のケアが注目され始め、青海省でもNGOや専門家がいち早く被災地に入って活動している。
チベットでは、7世紀にインドより仏教が伝来して以来、「生老病死」という四苦とどう向き合うのか、その為に菩提心を如何に持っていくのか、その歴史の中で当然「心」の問題を絶えず研鑽してきた叡智があるはずである。これは、中国人専門家にとってもチベット仏教における「心のケア」を学ぶ好機会になるのは当然の事である。
被災者のひとりKさん(40歳 女性)は、玉樹、結古鎮の旧市街の丘の上に住んでいる。震災で家は全壊し、生まれたばかりの子どもとガレキの中から救出された。今は家族親戚と身を寄せ合ってテントで暮らしている。Kさんに「つらい時はどうしているの?」と訊ねたら、当然のように「お経を読むのよ。」とすぐに返事が返って来た。
一方、被災者の暮らす避難キャンプには番犬であるチベット犬も沢山避難してきている。チベット犬は本来狩猟犬であった為、非常に獰猛である。一匹が吠え始めるとそれに反応するかのように次々に吠え始める。毎晩、犬達の大合唱で睡眠不足に悩まされていたのは僕だけではないはずである。
ある夜、テントで寝ていたら、いつものように犬達が吠え始めた。うるさくて眠れずにいると隣のテントから老人の読経が聞こえてきた。「読経を聴きながら眠りに就くなんて、なかなかない経験だなあ。」と思いながらウトウトし始めた時、いつの間にか犬達の鳴き声もやみ始めている事に気がついた。まるで読経の響きに犬達もどこか落ち着いてきたかのようだった。きっと犬達も突然の集団生活でストレスを抱えているのだろう。

青海省地震レポート28

チベット人の死に対する向き合い方には非常に学ぶ事が多い。
死者の書「バルド・トドゥル」についてはレポート18でも書いたが、チベットでは人が亡くなると、僧侶が死者のそばで7日毎に法要(モンラム)を行う。死者の魂が成仏すると言われる49日目まで法要は続けられる。人が亡くなったら葬儀をして終わりではない。現代医学で言う「心停止」というものが、チベットでは「死」ではないのである。
6月5日、玉樹の天葬台で49日法要の最終日をたまたま過ごす事になった。
玉樹では、人が亡くなると旧市街の丘の上にある天葬台で鳥葬(天葬)で葬られるのが、通例であるが、この震災では亡くなった方が多い事や感染症などの諸事情により、この天葬台で火葬にされた。この日、この天葬台では、結古寺(ジェグ・ゴンパ)など宗派を超えていくつかの寺院から僧侶たちが集まって死者のために読経をあげた。それを聴くために沢山の遺族も集まり、マニ車を廻す人、寝そべるように低頭して読経に耳を傾ける人、各々の祈りの姿が見られた。火葬する為に掘られた穴(抗)のそばでは、その場から離れようとしない遺族やひたすら五体投地で祈りを捧げる老婆の姿が今も目に焼き付いている。また、活仏(高僧の生まれ変わり)に手を合わせながら喜捨をする遺族の顔には、どこか安堵のようなものさえ感じられた。
いくつかのテントでは、ヤクのバターで作られた灯明の火は絶える事なく、灯し続けられた。どうやらこのバターは被災者のひとりひとりが持参してきたもののようで、その横では沢山の遺族によって灯明の芯が作られていた。僧侶だけでなく、被災者自らが当然のようにボランティアとして法要を支える姿がそこにはあった。チベット人はこうやって「死」のそばにいる事でいつか来る「死」への準備をしているように見えた。チベットでは、暮らしの中に仏教がしっかりと息づき、「死」といかに向き合うかを仏法が教えてくれている。

青海省地震レポート27

被災地、玉樹の特産品は漢方薬材の「冬虫夏草」である。レポート12でもお知らせしたようにチベット全体の現金収入の約40%を占めるほど、チベット人の生活には欠かせないものの1つである。
1年うち5月から6月の約40日のみが採集期であり、震災後から被災者のチベット人たちは、テントでの避難生活を送って来たが、多くの被災者が山を目指す。
僕らが玉樹を訪れた6月初めは、まさしく採集の最適期であったため最大の避難キャンプでもそれほど多くの被災者の顔を見なかった。確かにキャンプにいるのは、高齢者や幼い子ども達が多かったように思う。「家族は皆、虫草(冬虫夏草)を採りに山に行っている。6月末まで帰って来ないよ。」、「今は皆、山に行っているからいいけど、帰って来たらテントに寝る場所がない。」という声をよく聞いた。また、結古鎮の路上では、あちらこちらで臨時の市が立つ。虫草を採って来た遊牧民やバイヤーとの間で形、大きさ、鮮度などの品定めが行われ、売買される。
玉樹のチベット人は、だいたい7歳ぐらいになると親に連れられて虫草を採りに山に入るという。簡易なテントとツァンパ(麦焦がし)などの食料のみの装備だけの採集の旅である。6月といえど標高4500から5000m近いところでは雪は降り積もり、時に死者も出るという。だが、この40日間で1年分の収入を稼ぐために家族総出で山に這いつくばって必死に虫草を探す。きっとここで子は親から山での生きる智恵を伝授されるのであろう。そしてチベット人という誇りも身につけていくのだろう。虫草の採集のために子ども達は毎年、この時期が学校の休みになっているという。チベット特有の暮らしを大切にした生活のありようがうかがえる。このようにチベットの自然、暮らしに寄り添った復興が切に望まれる。

青海省地震レポート26

チベット人は仏教を深く信仰している。
玉樹州結古鎮のシンボルでもある結古寺(ジェグ・ゴンパ)は、チベット仏教サキャ派の寺院で街の北東の丘の上に位置し、街のどこからでも見る事が出来る。このシンボルも地震によって大きな被害を出した。
僧侶が8名亡くなり、本堂や静修院(瞑想などを行う場所)も倒壊し、約500人の僧侶の住む僧坊も至る所に亀裂が入った。今後、使用する事は不可能である。この結古寺の僧侶はいち早く、街に降りて、ガレキの中から生存者の救出、物資の配給、犠牲者の葬儀など被災者の救援活動を精力的に行った。
僕らが結古寺を訪れた時、僧侶達は倒壊した寺院から持ちだした仏像や法具などをプレハブの仮設に運んでいた。このプレハブは広東省のライオンズクラブ(獅子会)の寄贈されたもので、本堂と周囲にコの字型の僧坊がプレハブが僧侶自らの手で建設されている。この日、仮設の本堂では「砂マンダラ」が僧侶達によって制作されていた。僕らは幸運な事にこの制作過程を見る事が出来た。一人の僧侶が経典に記された通りの色を指示し、沢山の僧侶の手によって下書きの通りに色砂が盛られ、その上にまた違う色砂を盛ってデザインされていく。様々な色に彩られて非常に美しい砂絵が出来あがっていく。
完成した5つの「砂マンダラ」は、15日間展示して被災者に参観してもらった後、取り壊し、この色砂を被災者に分け与えるという。
この「砂マンダラ」は、須弥山世界(仏教の宇宙観)を表し、通常、完成した瞬間に取り壊される。永遠なるものはない。諸行無常を表しているという。
被災して間もないこの時期に何よりも先に「砂マンダラ」を作る僧侶たち。
寺は「砂マンダラ」で被災者に喜びや希望を与える。そして被災者は寺を支える事で自ら元気になっていく。まさに支え合いの中でチベット仏教は脈々と受け継がれてきた。
信仰深いチベット人にとって仏教や寺は暮らしの一部になっている。

青海省地震レポート25

玉樹で活動するボランティアも様々な思いを持って被災地に駆け付けている。
Wさん(30代後半 男性)は、地震発生直後からNGOのテントを拠点にボランティア活動を行っている。元々、西安で麺職人をしていたが、何らかの事情で仕事を辞め、休養を取っていた時に地震が起きた。たまたま時間のあったWさんは、玉樹へボランティアに行こうと思ったという。僕らが出会った時にはすでに避難キャンプのテントで50日以上寝泊まりしており、顔は真っ黒に日焼けして、地元のチベット人かと見間違える程であった。
「俺は何の専門もないけど。。」というWさんだが、最近はキャンプの被災者から「太夫(医者の意)」と呼ばれている。毎日、怪我や病気の被災者の住むテントへバイクを走らせ、薬の交換などを行っている。「ここに来た時は医療の事なんか全然分からなかったけど、少しずつ薬の事も分かってきたよ。薬の交換ぐらいなら俺でも出来るから。」とWさんは言う。
ある日、Wさんは、いつものようにバイクで薬を届けた帰りに、ある男性に呼び止められたそうだ。バイクの薬箱を見たその男性は、Wさんを引っ張るように自分のテントへと連れて行った。そこには足の怪我で寝たっきりの奥さんがいた。奥さんに何か薬がないかという事だったが、チベット語のまったく分からないWさんは、その後、通訳を連れて出直した時にその家族の置かれている状況が初めて分かって驚いたという。
その男性は、9人家族で、3人の子どもはこの地震で亡くなった。その男性1人分の被災証明書で支給される義捐金(1日10元)と食料(1日500gのお米)で残った家族6人が生活しているという。玉樹に戸籍を持っているのはこの男性のみで、他の5人はここに戸籍がない為に被災証明書がもらえない。皮肉な事に亡くなった3人の子どもは、3年前に就学などのために戸籍を買ったばかりだったという。また、文字の読めない男性は政府の発行する書類や支援に関する情報が分からない。戸籍が玉樹になくても被災証明書をもらった人もいる。政府補助の情報がこの男性のように末端まで届いていない事の証でもある。この男性は、これまでたった一人苦しい思いを胸に秘めていたのだろう、目に涙をいっぱい溜めて堰を切ったようにWさんに語ったという。
Wさんは自分達のテントからそれほど遠くない場所でこんな現実があった事に驚いたという。Wさんは、「俺たちボランティアには大した事はできないけど、目の前の事を精一杯やるしかない。」と最後につぶやいた。

青海省地震レポート24

被災地、玉樹の最大の避難キャンプでは、中国のNGOやボランティア達が、地震の発生直後から活動している。四川の被災地でつながったNGO「関愛生命万里行」のボランティア達は、僕らにテントや食事などを快く提供してくれた。その現地代表のM氏に話を聞いた。彼らは、地震発生の3日後からボランティアの医師と共に医療活動などを行ってきた。
M氏は、心理ケアの専門家でもあるが、現在は医療活動、子供のケアに留まらず、何でも屋のように駆け回っている。時折、拠点のテントに被災者がM氏を訪ねて来ては、被災証明書などの情報について相談する。
四川での活動経験もあるM氏は、「四川の時より条件が悪い。」と言う。多くの被災者は固定の仕事を持っていない事、チベットでは文化も言語も違う事、仮設住宅を建設しない事、6月の段階でもテント(夏用)を配りきれていない事、9月から冬になる事など自然条件から生活条件まで課題は多い。
 翌朝、避難キャンプを歩いてみた。キャンプ内を流れる小川のそばを歩いている時にある光景が目に入ってきた。十数人の人々が川の両側に土のうを積む作業を行っていた。まさか、と思って、被災者の方に聞くと「夏場には集中的に雨が降り、川が増水するからなあ。」と返って来た。小川と言っても、川幅3~4メートル、水量は多く、流れも速い。土のうを積んだくらいで大丈夫なのかと首を傾げたくなる。
避難キャンプでのこれらの課題に対して「政府はどう対応しているのか」とM氏に尋ねると「地元政府に相談しても、逆にどうしたらいいか聞かれる。」というくらい対応策が未だ見えていないようである。
9月になると被災地に冬が来る。政府の発表では、冬用のテントや暖房器具を配布すると言っているが、未だマネジメントしきれていない状況で、このキャンプに暮らす数万人の被災者に均等に届くのだろうか。。。

青海省地震レポート23

数千張りのテントのある最大の避難キャンプである競馬場(草原)では、中国のNGOやボランティアもテントで拠点を作り、活動を行っている。医療、心のケア、子供のケアなど様々だ。
 キャンプ内を歩いているとボランティアらしき青年とチベットの子どもたちが遊んでいるのを見かけた。看板には「愛100 玉樹青少年空間」と書かれてあった。ニーハオと声をかけると座っていかないかと返してくれた。
 話を聞いてみると、二人の男性は四川省の綿陽市から来たという。2年前の四川大地震の被災地である。まだ20代と思われる青年も被災者のひとりで、ボールや将棋などの遊び道具を持って、友達と一緒に四川から来たそうだ。 テント内で読書や将棋をしたり、簡素なグランドで、バスケットボールやサッカーをしたりして、子ども達の「遊び場」を提供している。真っ黒に日焼けして、鼻水を垂らすチベットの子どもたちは彼らの事を「老師!」(先生の意)と呼んでいた。「あの時、沢山のボランティアが活動しているのを見て、いつか自分もやろうと思ったんだ」と語る青年の言葉は印象的だった。
 その他、キャンプで活動しているNGOも多くは、四川での経験を経てここにやってきている。僕らがお世話になったNGOやボランティア達も、2年経った今でも四川で地道に活動している。四川地震直後、被災地で共に汗を流したボランティアたちが、また玉樹で再会するという現象が起きている。四川大地震の際、ボランティア元年と一部で言われていたが、彼ら、彼女らが握手で再会を喜んでいる姿を見ると四川から青海へと確実にボランティア文化が中国にも根付きつつある事を実感する。