数千張りのテントのある最大の避難キャンプである競馬場(草原)では、中国のNGOやボランティアもテントで拠点を作り、活動を行っている。医療、心のケア、子供のケアなど様々だ。
キャンプ内を歩いているとボランティアらしき青年とチベットの子どもたちが遊んでいるのを見かけた。看板には「愛100 玉樹青少年空間」と書かれてあった。ニーハオと声をかけると座っていかないかと返してくれた。
話を聞いてみると、二人の男性は四川省の綿陽市から来たという。2年前の四川大地震の被災地である。まだ20代と思われる青年も被災者のひとりで、ボールや将棋などの遊び道具を持って、友達と一緒に四川から来たそうだ。 テント内で読書や将棋をしたり、簡素なグランドで、バスケットボールやサッカーをしたりして、子ども達の「遊び場」を提供している。真っ黒に日焼けして、鼻水を垂らすチベットの子どもたちは彼らの事を「老師!」(先生の意)と呼んでいた。「あの時、沢山のボランティアが活動しているのを見て、いつか自分もやろうと思ったんだ」と語る青年の言葉は印象的だった。
その他、キャンプで活動しているNGOも多くは、四川での経験を経てここにやってきている。僕らがお世話になったNGOやボランティア達も、2年経った今でも四川で地道に活動している。四川地震直後、被災地で共に汗を流したボランティアたちが、また玉樹で再会するという現象が起きている。四川大地震の際、ボランティア元年と一部で言われていたが、彼ら、彼女らが握手で再会を喜んでいる姿を見ると四川から青海へと確実にボランティア文化が中国にも根付きつつある事を実感する。
月別アーカイブ: 2010年7月
青海省地震レポート22
4月14日に青海省玉樹州を襲ったM7.1の地震は大きな被害をもたらした。州の中心である結古鎮やその周辺の郷鎮の被災者の多くは、結古鎮郊外の大草原にテントを張って暮らしている。ここは、夏の最大の祭りである「康巴(カムパ)芸術祭」の開かれる場所でもある。「救災」と書かれた数千張りの青いテント群が、数キロある草原を埋め尽くし、山の斜面でさえも見渡す限りの「青」である。聞くと、ここにどれだけのテントがあり、どれだけの被災者の人々が暮らしているか、正確な数字を政府やNGOも把握していないという。政府または、NGOによってマネジメントされていない避難キャンプでは、人を探すのもひと苦労だ。実際に地震直後に沢山の被災者がここに避難してきたが、家族、親戚に会えずに苦労したそうだ。一カ月半を経たキャンプでは、少しずつではあるが、家族や同郷の人々同志が、同じエリアにまとまって暮らしつつある。
約100km近郊の称多県出身のAさん(40代男性)は、家族5人でこの草原に避難してきた。2つのテントを利用し、1つのテントには元の家から運び出したテレビや冷蔵庫、ストーブを綺麗に配置して暮らしている。娘達を結古鎮の学校に通わせていた事からAさん達は、数年前、結古鎮に中古の家を買って暮らしていたそうだ。被害を受けた写真を僕に見せてくれた。現代風な家屋で至る所に亀裂が走っているのが分かる。「もうこの家は使えないなあ」と肩を落とすAさん。今後、どうするのかと聞くと、「まだ分からない。家は政府が建ててくれるらしい。しばらくはこのテントで暮らすしかないなあ。。。」と語った。
四川大地震の時と同様に中国政府と青海省政府は、一人当たり1日10元の義捐金と500gの米を配布しているが、Aさん家族は、り災証明書(災民証)はもらったが、義捐金はまだ受け取っていなかった。実は、Aさんのすぐ隣のテントの7人家族は、たった1つのテントで暮らしていて、2人は地べたに寝ているという。
直後から活動している中国人ボランティアWさんの言った言葉が今も忘れられない。「若者など力のあるものが、テントや食料を持っていて、高齢者のような弱い人々には何もない。」
地震直後に物資を見境なく配った事による弊害が今も影を落としている。やはり、この最大の避難キャンプが政府やNGOなどによってしっかりとマネジメントされなくてはならない。
青海省地震レポート21
7月14日、青海省地震から3カ月が経った。日本のメディアもわずかではあるが、被災地の現状を報道した。「誰がどこに入るのか決まっていない」、「今までの集落がバラバラになる」などの声も報じられた。(7月14日 北京共同通信)
6月初め、僕らが玉樹を訪れた際にも同じような声を聞いた。
玉樹の旧市街地、普セキ(てへんに昔)達巷は、なだらかな丘にへばりつくように一戸建ての住宅が集まっている。このあたりは、まともに残った家がほとんどないほど一面のガレキとなり、約150戸のうち、約30人が帰らぬ人となった。ここに暮らすKさん(40歳 女性)は、8年前に建てた家が全壊し、敷地にテントを張って家族3人と親戚で身を寄せ合って暮らしている。地震の際、生後33日の子どもと共に生き埋めになった。その後、救出してもらった時、赤ちゃんの息はなかったが、人工呼吸でかろうじて一命はとりとめた。今後の話を聞くと、「再建計画によっては、ここを移動しなくてはならない」とどこか割り切ったように語るKさんだが、「この土地は父母が残してくれた土地だから。。。」と本音もつぶやく。
玉樹を去る前日に再び訪ねた際、軍によって周辺の家屋のガレキが一気に撤去されようとしていた。ガレキの撤去が始まったらどこに住むの?と尋ねると、「丘の上の空いた所にテント張るよ」と言う。
また再びこの土地に戻ってくる事が出来るのか分からない。また、家族の多いチベット人には、再建後、政府の提供する80㎡の住宅では小さすぎるという声も多く聞いた。
急ピッチに進む復興計画。奇しくも現在、青海省政府の代表団が来日していて、神戸や中越を視察している。是非とも政府の方々には日本の成功事例だけでなく、復興の過程でコミュニティーがバラバラになってしまった事例もしっかりと学んでもらい、始まったばかりの玉樹の復興に活かしていただきたい。
青海省地震レポート20
地震発生から1カ月半を経た6月上旬、被災地、玉樹へと入った。州の中心、結古鎮は約2万3000人ほどの小さな町であるが、その建物の90%近くが倒壊したと言われている。実際、街をT字に貫く民主路と勝利路沿いの鉄筋コンクリート造のホテル、商業ビルなどは形をかろうじて残しているが、危険家屋のため使用不可能である。また、道路から少し入ると粘土造の家屋はことごとく倒壊しており、形さえ残していない。
街の中心であるケサル広場周辺には、政府によって配られた青いテントが立ち並び、被災者の人々は商売に精を出している。食堂、八百屋、洋服屋、仏教用具店など様々である。
だが、街は以上に埃っぽい。標高3700mの高地で乾燥している事もあるが、街中のいたる所でガレキの撤去作業が急ピッチに行われている。旧市街地の一部のエリアでは、軍によって数台の重機を投入して大規模に撤去されている。「たった1カ月半しか経ていないのに何でこんなに早いんだ?」と思った。その後、被災者やボランティアと話をしているうちにその答えが分かった。玉樹は、1年の内8カ月が厳しい冬に閉ざされ、最低気温-30℃になる時もあるという。再建工事の可能な期間は、5月から8月までのたった4カ月しかないと政府も発表している。そう言えば、四川の被災地でも、標高2000mを超えるチャン族の集落でも冬場の工事によってコンクリートの凝固状態が悪く、再建されたばかりの家に亀裂が入り、雨漏りから鉄筋が錆びて、誰も入居したがらないという事があった。
スピードを重視しなくてはいけない事情も理解できるが、急ぎ過ぎる事でより深刻な問題を引き起こすことも考えなくてはいけない。
青海省地震レポート 19
四川省地震の救援プロジェクトで成都に滞在しているYさんが、6月初め、青海省地震の被災地に入りました。そのレポートを数回にわたってお届けします。
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~玉樹への道~
青海省の被災地、玉樹に入った。四川大地震以後、多大なご協力を頂いている成都のゲストハウスのMさんと地震後、今も奮闘している中国人ボランティアリーダーのXくん、そして四川のチベット人ドライバーの4人で被災地玉樹へと向かった。成都を出発し、朝、7時頃から夜の11時頃まで車を飛ばし続けて2日半の長旅であったが、車窓から見える標高4000m前後のチベット世界は素晴らしい風景であった。
チベット人の多く住む四川省甘孜(カンゼ)チベット族州の「カンゼ」という名は、チベット語で「白く美しい」という意味で肥沃な自然を表すという。その名の通り、周辺の山々にはスギやマツ、トウヒ、モミなどの針葉樹の姿を見る事ができ、集落にはその樹々をふんだんに使った非常に立派な木造家屋が建ち並んでいる。一見、欧米のログハウスのように丸太を積んだだけのようにも見えるが、ホゾとクサビを使った伝統構法の木構造にチベット風の石積みの外観は非常に風景に馴染んでいる。
1973年の爐霍大地震(M7.9 死者2175人)後に、このような木造家屋が増えたようだが、聞くところによると、昔は自分達で山に入って木を伐って来ていたそうで、最近では林業局の規制も厳しくなって勝手に伐る事は出来なくなったという。約3億人が被災したと言われている1998年の長江大洪水の後、事態を深刻に見た中国政府は、その後、四川省など長江上流域での森林伐採を禁止する政策をとった。いわゆる「退耕還林」である。
一方、被災地、玉樹周辺は標高約3700~4500mの高地は森林限界に達しており、玉樹の中心地、結古鎮の周辺には森林と呼べる所はほとんどない。5~6000m級の雪山と広大な草原とわずかな低草木がひろがるのみである。結古鎮やその周辺でも四川のような木造家屋は見る事はできない。この地震で倒壊した家屋の多くは、地元で手に入りやすい土と石などを使った質素なものであった。同じチベット高原でも地域によって建築のあり様は様々である。
下流の急速な経済発展のために上流の森林が伐られていく。そして今度は伐るなと言われる。長江、黄河、メコン河の上流域であるチベットの自然は、時代の大きな変化に翻弄されてきた。