何をもって「災害」と呼ぶのだろう。地震、津波、地滑り、洪水、台風、噴火などの自然現象が発生しても、そこにいる人間に被害がなければ「災害」とは呼ばない。バングラデシュでは、洪水を「banya」と呼ぶが、これは毎年、雨季には河川が氾濫し、田畑を水没させるというひとつの自然現象である。その氾濫は、そこに暮らす人々にとっては肥沃な土壌を生みだす恩恵であり、災害という認識はない。日本の遊水地もそうであるが、このような恩恵の面も含めた日常的に起きる洪水をbanyaと言うそうである。だが、その程度が、一定の範囲を超えると「災害」として認識される事になる。
日本でも地滑り地帯の分布と棚田の分布がほぼ重なるという。先人達は、日常的に起きる地滑りを防ぐために斜面に棚田を作って、災害とうまく付き合ってきたのだろう。
また地震の多いインドネシア、パキスタン、イランなどのイスラムの国々では、震災を「神の試練」と捉え、行いを正し、より信仰を深めなくてはいけないと考える人々も少なくない。2005年のパキスタン北東地震の被災地でも地震発生時、外に逃げずにただ祈っていたという話を多く聞いた。イスラムの国々では女性や子供などの被害が拡大するケースも多い。このように災害観はその国の風土、習慣、文化、宗教によっても捉え方が違う。
チベット人の多くは、「カルマ」を信じている。日常の中でこのカルマという言葉をよく使う。カルマとは、日本語では、「業」と訳される事が多いが、本来は「造作」という意味で人間の行いとその影響を示すそうだ。水に石を落した時に水面に広がる波紋のようなものとよく喩えられる。
あるチベットの活仏は、玉樹の被災者に以下のようなメッセージを送った。「すでに起こってしまった事は、それぞれの業(カルマ)の結果として起こってしまった事だ。だが、未来は業によって定められているのではない。業は自らが今から決める事が出来るのだ。だから、挫けないで亡くなった人々のために祈りなさい。」
被災した人々によってその「災害」の意味は当然違う。阪神・淡路大震災から15年を経た今でもKOBEではその意味を問い続けている人々がいる。
青海省の被災地のチベット人たちは、この震災をどのように捉え、過酷な今を耐え、乗り越えようとしているのだろうか。
中国青海省地震レポート No.14
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