<4年ぶりのパキスタン>
3月23日にパキスタン入りし、25日までの現地滞在3日間という、ほんとに駆け足の訪問となった。前回パキスタン入りしたのは01年「9・11」の翌年、初めてアフガニスタンを訪問したときだ。あの時は、在日約30年というアフガニスタンの人が里帰りをするときについていき、パキスタン・北西辺境州-アフガニスタンの国境にあるカイバル峠を越え、ジャジャラバードを経てカブールに入った。その方の親戚がペシャワールに住んでおり、ペシャワールにも滞在したことを思いだす。吉椿さんのパキスタンレポートによく登場するバラコット地区は、この北西辺境州の西端になる。ムザファラバードのあるAJK(アザド・ジャンム・カシミール)と接している。ちなみにさらに被災地の北部にいくと「連邦直轄部族地域(通称北部地域)」といっており、結構複雑な地理になる。さて、22日の深夜にイスラマバードのホテルに入り最初の朝は、久しぶりのモスクから聞こえてくるアザーンで目が覚めた。午前4時半である。私は時計を持っていない人なので、部屋にも時計がなくちょっと困っていたが、朝の開始はアザーンで始まることを思い知らされた。というのは、最初の第1声が聞こえてから立て続けに3連発である。アザーンと共にカラスの鳴き声が騒々しくなり、しばらくすると大砲の音が10数発聞こえてきた。今日は、独立記念日だと昨晩聞いていた。完全に目を覚まされることになった。
<いよいよ被災地へ>
イスラマバードからマリという地域を通ってムザファラバードまでは3時間半から4時間かかる。マリという途中の山の頂上あたりにあるところは、夏の避暑地になっているそうだ。マリを過ぎ、下り坂になりイスラマバードに近づくにつれ、テント群が目に入ってきた。急斜面の山肌にぶら下がるように家々がへばりついているが、このテント村の被災者はその山肌に住んでいた人たちのようだ。それにしてもよくあんな頂上まで住んでいるもんだなぁ、と感心させられる。遙か遠くの山の頂きから、うっすらと雪景色が覗く。崖下を見ると川の水は泥水で、かなりの水流が流れている。「どうして、こんなに泥水なのだろう?」と思っていたら、同行したUNCRD兵庫センターの安藤所長が「雪解けの水でしょう。」と教えてくれた。この勢いのある泥水は、雪解けの春を告げる一つの顔なんだ。
そういえば、日本を発つ前に吉椿さんにこちらでのこの時期の服装を聞いたら、雨が降らなければ日中は暑くて半袖のTシャツで、雨が降ると極端に寒くなり、またセーターを着込むという状態だと聞いていた。ムザファラバードの中心街に入る入り口は、ニーラム川とジェーラム川の二本の川が合流しているところで、片方のジェーラム川と平行に走っている道路をひたすら走るとインドとの国境に辿り着く。実はその途中に、ジャパンプラットフォームが管理運営する「キャンプ・ジャパン」という200世帯が住む被災者のテント村がある。一方北部の方へ向かっていくニーラム川に沿って真っ直ぐ進むと左手の町中に元公共事業局跡地がある。そこに約60㎡のPPバンド仕様ローコスト耐震補強のモデルハウスの工事が進んでいる。そこから数分あるいた警察所跡地で、従来のノン・エンジニア住宅とPPバンド補強をした住宅とそれぞれ6分の一モデルを振動台に乗せ、実際に揺らすことになる。約1か月前から作業にかかっているが、いよいよ25日の数分間でどちらかは壊れるだろう。どちらかといったが、もちろん耐震補強をした「目黒式ローコスト耐震補強」のモデルが壊れないことを祈る。
<バザールは、元の活気を取り戻しているが・・・・。>
ムザファラバード中心街を走る目抜き通りを走っていても、意外にあまり地震の被害は目につかないほど、誰もがまるで何もなかったように商いをしている。目抜き通りから少し奥に入ったバザールでは、瓦礫の山の上に商品を並べていたり、今にも倒れそうな建物の一階で商いをしていたり、また貴金属商のお店には女性客が入っていない店はないほど繁盛しているというように活気が戻っているといえるが、建物の再建を後回しにして営業をし、そこに人々がたくさん賑わっているという光景は実に複雑である。それこそ、今ここに再び大地震が来て多くの人が犠牲になっても、「アラーの神の思し召し」として受け入れられるのだろうか。
ここのバザールの奥の方の路地を入ると行き止まりになっており、その右側の一角が見事に崩れ落ちている。100㎡くらいの敷地だっただろうか。赤いレンガの山となっている。ここは吉椿さんが英語・現地語の通訳をして貰っていたアリ君の家だったらしい。約60年前から建っていた古いレンガ造りの建物だ。お母さんは幸いにも辛うじて残った建物に寝ていたので助かったが、他の家族は瓦礫の下敷きになって亡くなったとのこと。崩れた赤いレンガの隙間から、カバンや洋服が見える。まさか、こんな大惨事になろうとは予測だにぜずに楽しき暮らしていただろうと想像する。まさに悲劇である。
しかし、あれから半年になろうかとする被災地には、こうした瓦礫の跡が至るところにある。阪神淡路大震災のときは、しばらく瓦礫の上は歩けなかったものだ。命に対する考え方が違うのだろうか?でも、こうした大災害は二度と繰り返したくないという思いは同じだ。
<至る所に斜面崩壊の痛ましい跡が・・・・・。>
市内から北側の山の斜面を見ると、至る所に大規模な斜面崩壊が目に入る。あの時の瞬間を知っているものは、この山々から白い煙が舞い上がっていたと証言する。石灰岩で出来た山の斜面が崩れたからだ。市内の大学跡地にあるテント村の被災者は、こうした斜面崩壊のところから逃げ出して来た人たちが、今も残っている。政府はすべてのテント村に対して「3月末には撤去せよ!」と告げているらしいが、斜面崩壊した土地の人たちは元に戻りようがない。地滑りなどの専門家は、「一度地滑りを起こすと、そこはまた何年かすると必ず地滑りを起こすという。」根本的な措置が必要であり、住民には移転することを奨めたい。とはいえ、土地に愛着があったり、生業と深く関連していたりすると難しい問題である。幸いこのテント村にいる人たちの多くは、震災前からこの市内に出て働いていたそうだ。
25日は、深夜から激しい雨が降り続き、夕暮れ時まで降り続いていた。それが原因で市内を流れる二本の川は、見事に赤茶けた色に変わっている。斜面崩壊をした山は、石灰岩が剥き出しになった白い色をしているか、レンガ色である。この川の色を見ると、不気味な感じがする。山の至る所で小さな土砂崩れを起こしており、これだけの集中豪雨になっても避難勧告などが出されないのも不思議な気がする。今にも、落ちそうな斜面に住んでいる光景を見ると、自己責任を超えていると思う。
<被災地バラコットは・・・・・・。>
ムザファラバードから片道2時間かけて、北西辺境州の方に走るとバラコットという地域がある。ここの被害は、ムザファラバードの比ではないようだ。中心を走る目抜き通りの入り口までの両側にはテント村群が立ち並ぶ。最も賑やかな町中に入ると、360度見渡す限り瓦礫の街というほどの光景が飛び込んでくる。ビデオで撮影していると分かる。いつもカメラをゆっくりと360度廻さなければならないからだ。ここもやはり石造りやレンガ造りの住宅が大半でったのだろう。もし、目黒式耐震補強がされていたらどれだけ残っただろうか。ふと、そんなことを思った。一方、自力で住宅再建に取りかかっている人たちもチラホラ見受ける。よく見るとおそらくこれまでの住宅様式と違うのは、レンガや石造りの壁であっても、精々腰の高さくらいしか積んでいないやり方だ。このような構造がこの地域の気候に適しているかどうかは判らないが、少なくとも工夫の跡は見える。たしかに次に地震が来ても、壁が腰の高さならば壊れて下敷きになっても大けがをすることはないかもしれない。また竹を建築資材として使ったいわゆる「バンブーハウス」を奨励しているNGOもある。このバラコット周辺に150戸建てる計画とのこと。竹はビルマから、技術者はバングラディッシュからという形で、地元のNGOが建設をしている。約50㎡で総工費20万円。個人的には建築資材として竹には興味があるが、問題は竹が地元もしくは国内で調達できるかということと、建築費が20万円というコストは、低所得者層には安いものではない。先のUNCRD兵庫センターの安藤所長曰く、「こういう標高で雪深い地域でも”根曲がり竹”というのがあるので、地元でも育たないことはない」と。実際に注意深く見ていると、マリからムザファラバードに向かう途中で、わずかに1軒だけだが竹を育ている家があった。結構太い竹に育っていたのでこれくらいなら家の柱にも使えるなと思った。出来ることならば、次の冬が来るまでにじっくりと住宅再建について考え、目黒式ローコスト耐震補強工法を採用した家造りに取り組むとか、(ここの気候に対応できるかという課題は残るが)思い切って竹を使った家造りに取り組むとか検討して欲しいものだ。ケースにもよるが「復興は急ぐな!」は、阪神・淡路大震災の大切な教訓の一つである。
<3月末でテントを撤去せよ!?>
パキスタン政府は、被災者の中のテント生活者には「3月末に撤去するように」と言っている。この情報は少なくともムザファラバード内のテント村には行き届いているようだ。しかし、問題は「出ろ!」と言われても、住むところがない被災者である。地震による地滑りで住んでいたところが大幅に崩れてしまった場合は、代替地がなければ住むことができない。「代替地を提供してくれれば何処へでも行くよ」 という被災者もいる。以外に山間部に住んでいた人たちは、元住んでいたところへのこだわりはない。各々の国によって「住まい方」は多様だ。でも、また危険を伴うような場所には住まないという選択をしなければ、命は守れないのも現実である。もちろん移転する場合でも、被災者との合意の元で行うことが原則であるので、被災者と関係者は根気よく復興プランをつくり、実行に移すことを願う。復興再建の過程で、被災者が主役となることがその後の再建に大きく影響を及ぼす。特に地域経済の再建には、暮らし再建を果たす被災者一人ひとりの生きていくエネルギーが原動力となる。長い時間のかかる大規模災害後の復興を成し遂げるには、長期にわたる再建計画のグランドデザインが描けるリーダーが求められるだろう。
<何よりも安心や信頼!>
手前味噌で恐縮だが、第2次調査として3月初めから現地入りしているCODEのスタッフ吉椿さんは、実にいい動きをしている。毎日のように、テント村を廻っており被災者との交流を続けている。吉椿さんの顔を見たときの、被災者の笑顔が何を物語っているのか察しがつく。先行きの不安な中で、しかもテント生活という住環境の中でのストレスは想像以上だろう。そんな中で、阪神・淡路大震災や新潟中越地震そして九州西方沖地震と救援ボランティアを行ってきた彼の笑顔は、何よりも被災者に安心と信頼を与えるようだ。親しくなったテント生活者をこまめに訪ねてまわっている。しばらくの立ち話であっても被災者の悩みの相談相手というところではないだろうか。そもそも吉椿さんは、阪神・淡路大震災でも、新潟中越地震でも”足湯マッサージ”というのを普及させてきたボランティア。被災者が、暖かいお湯に足を入れていると気持ちよくなり、こちらから聞かなくても被災者は語り出す。こちらから聞き出さなくても、語り出す。そうした自然体の中でのコミニュケーションには重要な意味合いがある。私たちは、これを”つぶやき収集”と言っている。こうした形で、被災者のニーズを探りながら、適切な支援を考え出すのが吉椿流といえる。何でも28日には、キャンプ・ジャパンで新潟中越の話をすることになったらしい。是非パキスタン版”足湯”を開発して欲しいものである。彼が被災者と接する姿を見ていると、ノーベル経済学者のアマーティア・センが言った次の言葉を思い出す。その言葉を紹介して、私のパキスタンレポートを終える。
--君がスラムの人たちを前にして考えるべきことは、彼らのニーズは何かということではなく、もし彼らが本来の力を発揮する自由を与えられたならばどう行動するか、ということ。そして君はどのようにしてその自由を拡大できるかということである。--
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