月別アーカイブ: 2006年4月

~4年ぶりのパキスタン~ 理事・事務局長 村井雅清

<4年ぶりのパキスタン>

 3月23日にパキスタン入りし、25日までの現地滞在3日間という、ほんとに駆け足の訪問となった。前回パキスタン入りしたのは01年「9・11」の翌年、初めてアフガニスタンを訪問したときだ。あの時は、在日約30年というアフガニスタンの人が里帰りをするときについていき、パキスタン・北西辺境州-アフガニスタンの国境にあるカイバル峠を越え、ジャジャラバードを経てカブールに入った。その方の親戚がペシャワールに住んでおり、ペシャワールにも滞在したことを思いだす。吉椿さんのパキスタンレポートによく登場するバラコット地区は、この北西辺境州の西端になる。ムザファラバードのあるAJK(アザド・ジャンム・カシミール)と接している。ちなみにさらに被災地の北部にいくと「連邦直轄部族地域(通称北部地域)」といっており、結構複雑な地理になる。さて、22日の深夜にイスラマバードのホテルに入り最初の朝は、久しぶりのモスクから聞こえてくるアザーンで目が覚めた。午前4時半である。私は時計を持っていない人なので、部屋にも時計がなくちょっと困っていたが、朝の開始はアザーンで始まることを思い知らされた。というのは、最初の第1声が聞こえてから立て続けに3連発である。アザーンと共にカラスの鳴き声が騒々しくなり、しばらくすると大砲の音が10数発聞こえてきた。今日は、独立記念日だと昨晩聞いていた。完全に目を覚まされることになった。

<いよいよ被災地へ>

 イスラマバードからマリという地域を通ってムザファラバードまでは3時間半から4時間かかる。マリという途中の山の頂上あたりにあるところは、夏の避暑地になっているそうだ。マリを過ぎ、下り坂になりイスラマバードに近づくにつれ、テント群が目に入ってきた。急斜面の山肌にぶら下がるように家々がへばりついているが、このテント村の被災者はその山肌に住んでいた人たちのようだ。それにしてもよくあんな頂上まで住んでいるもんだなぁ、と感心させられる。遙か遠くの山の頂きから、うっすらと雪景色が覗く。崖下を見ると川の水は泥水で、かなりの水流が流れている。「どうして、こんなに泥水なのだろう?」と思っていたら、同行したUNCRD兵庫センターの安藤所長が「雪解けの水でしょう。」と教えてくれた。この勢いのある泥水は、雪解けの春を告げる一つの顔なんだ。
そういえば、日本を発つ前に吉椿さんにこちらでのこの時期の服装を聞いたら、雨が降らなければ日中は暑くて半袖のTシャツで、雨が降ると極端に寒くなり、またセーターを着込むという状態だと聞いていた。ムザファラバードの中心街に入る入り口は、ニーラム川とジェーラム川の二本の川が合流しているところで、片方のジェーラム川と平行に走っている道路をひたすら走るとインドとの国境に辿り着く。実はその途中に、ジャパンプラットフォームが管理運営する「キャンプ・ジャパン」という200世帯が住む被災者のテント村がある。一方北部の方へ向かっていくニーラム川に沿って真っ直ぐ進むと左手の町中に元公共事業局跡地がある。そこに約60㎡のPPバンド仕様ローコスト耐震補強のモデルハウスの工事が進んでいる。そこから数分あるいた警察所跡地で、従来のノン・エンジニア住宅とPPバンド補強をした住宅とそれぞれ6分の一モデルを振動台に乗せ、実際に揺らすことになる。約1か月前から作業にかかっているが、いよいよ25日の数分間でどちらかは壊れるだろう。どちらかといったが、もちろん耐震補強をした「目黒式ローコスト耐震補強」のモデルが壊れないことを祈る。

<バザールは、元の活気を取り戻しているが・・・・。>

 ムザファラバード中心街を走る目抜き通りを走っていても、意外にあまり地震の被害は目につかないほど、誰もがまるで何もなかったように商いをしている。目抜き通りから少し奥に入ったバザールでは、瓦礫の山の上に商品を並べていたり、今にも倒れそうな建物の一階で商いをしていたり、また貴金属商のお店には女性客が入っていない店はないほど繁盛しているというように活気が戻っているといえるが、建物の再建を後回しにして営業をし、そこに人々がたくさん賑わっているという光景は実に複雑である。それこそ、今ここに再び大地震が来て多くの人が犠牲になっても、「アラーの神の思し召し」として受け入れられるのだろうか。
ここのバザールの奥の方の路地を入ると行き止まりになっており、その右側の一角が見事に崩れ落ちている。100㎡くらいの敷地だっただろうか。赤いレンガの山となっている。ここは吉椿さんが英語・現地語の通訳をして貰っていたアリ君の家だったらしい。約60年前から建っていた古いレンガ造りの建物だ。お母さんは幸いにも辛うじて残った建物に寝ていたので助かったが、他の家族は瓦礫の下敷きになって亡くなったとのこと。崩れた赤いレンガの隙間から、カバンや洋服が見える。まさか、こんな大惨事になろうとは予測だにぜずに楽しき暮らしていただろうと想像する。まさに悲劇である。
しかし、あれから半年になろうかとする被災地には、こうした瓦礫の跡が至るところにある。阪神淡路大震災のときは、しばらく瓦礫の上は歩けなかったものだ。命に対する考え方が違うのだろうか?でも、こうした大災害は二度と繰り返したくないという思いは同じだ。

<至る所に斜面崩壊の痛ましい跡が・・・・・。>

 市内から北側の山の斜面を見ると、至る所に大規模な斜面崩壊が目に入る。あの時の瞬間を知っているものは、この山々から白い煙が舞い上がっていたと証言する。石灰岩で出来た山の斜面が崩れたからだ。市内の大学跡地にあるテント村の被災者は、こうした斜面崩壊のところから逃げ出して来た人たちが、今も残っている。政府はすべてのテント村に対して「3月末には撤去せよ!」と告げているらしいが、斜面崩壊した土地の人たちは元に戻りようがない。地滑りなどの専門家は、「一度地滑りを起こすと、そこはまた何年かすると必ず地滑りを起こすという。」根本的な措置が必要であり、住民には移転することを奨めたい。とはいえ、土地に愛着があったり、生業と深く関連していたりすると難しい問題である。幸いこのテント村にいる人たちの多くは、震災前からこの市内に出て働いていたそうだ。
25日は、深夜から激しい雨が降り続き、夕暮れ時まで降り続いていた。それが原因で市内を流れる二本の川は、見事に赤茶けた色に変わっている。斜面崩壊をした山は、石灰岩が剥き出しになった白い色をしているか、レンガ色である。この川の色を見ると、不気味な感じがする。山の至る所で小さな土砂崩れを起こしており、これだけの集中豪雨になっても避難勧告などが出されないのも不思議な気がする。今にも、落ちそうな斜面に住んでいる光景を見ると、自己責任を超えていると思う。

<被災地バラコットは・・・・・・。>

 ムザファラバードから片道2時間かけて、北西辺境州の方に走るとバラコットという地域がある。ここの被害は、ムザファラバードの比ではないようだ。中心を走る目抜き通りの入り口までの両側にはテント村群が立ち並ぶ。最も賑やかな町中に入ると、360度見渡す限り瓦礫の街というほどの光景が飛び込んでくる。ビデオで撮影していると分かる。いつもカメラをゆっくりと360度廻さなければならないからだ。ここもやはり石造りやレンガ造りの住宅が大半でったのだろう。もし、目黒式耐震補強がされていたらどれだけ残っただろうか。ふと、そんなことを思った。一方、自力で住宅再建に取りかかっている人たちもチラホラ見受ける。よく見るとおそらくこれまでの住宅様式と違うのは、レンガや石造りの壁であっても、精々腰の高さくらいしか積んでいないやり方だ。このような構造がこの地域の気候に適しているかどうかは判らないが、少なくとも工夫の跡は見える。たしかに次に地震が来ても、壁が腰の高さならば壊れて下敷きになっても大けがをすることはないかもしれない。また竹を建築資材として使ったいわゆる「バンブーハウス」を奨励しているNGOもある。このバラコット周辺に150戸建てる計画とのこと。竹はビルマから、技術者はバングラディッシュからという形で、地元のNGOが建設をしている。約50㎡で総工費20万円。個人的には建築資材として竹には興味があるが、問題は竹が地元もしくは国内で調達できるかということと、建築費が20万円というコストは、低所得者層には安いものではない。先のUNCRD兵庫センターの安藤所長曰く、「こういう標高で雪深い地域でも”根曲がり竹”というのがあるので、地元でも育たないことはない」と。実際に注意深く見ていると、マリからムザファラバードに向かう途中で、わずかに1軒だけだが竹を育ている家があった。結構太い竹に育っていたのでこれくらいなら家の柱にも使えるなと思った。出来ることならば、次の冬が来るまでにじっくりと住宅再建について考え、目黒式ローコスト耐震補強工法を採用した家造りに取り組むとか、(ここの気候に対応できるかという課題は残るが)思い切って竹を使った家造りに取り組むとか検討して欲しいものだ。ケースにもよるが「復興は急ぐな!」は、阪神・淡路大震災の大切な教訓の一つである。

<3月末でテントを撤去せよ!?>

 パキスタン政府は、被災者の中のテント生活者には「3月末に撤去するように」と言っている。この情報は少なくともムザファラバード内のテント村には行き届いているようだ。しかし、問題は「出ろ!」と言われても、住むところがない被災者である。地震による地滑りで住んでいたところが大幅に崩れてしまった場合は、代替地がなければ住むことができない。「代替地を提供してくれれば何処へでも行くよ」 という被災者もいる。以外に山間部に住んでいた人たちは、元住んでいたところへのこだわりはない。各々の国によって「住まい方」は多様だ。でも、また危険を伴うような場所には住まないという選択をしなければ、命は守れないのも現実である。もちろん移転する場合でも、被災者との合意の元で行うことが原則であるので、被災者と関係者は根気よく復興プランをつくり、実行に移すことを願う。復興再建の過程で、被災者が主役となることがその後の再建に大きく影響を及ぼす。特に地域経済の再建には、暮らし再建を果たす被災者一人ひとりの生きていくエネルギーが原動力となる。長い時間のかかる大規模災害後の復興を成し遂げるには、長期にわたる再建計画のグランドデザインが描けるリーダーが求められるだろう。

<何よりも安心や信頼!>

 手前味噌で恐縮だが、第2次調査として3月初めから現地入りしているCODEのスタッフ吉椿さんは、実にいい動きをしている。毎日のように、テント村を廻っており被災者との交流を続けている。吉椿さんの顔を見たときの、被災者の笑顔が何を物語っているのか察しがつく。先行きの不安な中で、しかもテント生活という住環境の中でのストレスは想像以上だろう。そんな中で、阪神・淡路大震災や新潟中越地震そして九州西方沖地震と救援ボランティアを行ってきた彼の笑顔は、何よりも被災者に安心と信頼を与えるようだ。親しくなったテント生活者をこまめに訪ねてまわっている。しばらくの立ち話であっても被災者の悩みの相談相手というところではないだろうか。そもそも吉椿さんは、阪神・淡路大震災でも、新潟中越地震でも”足湯マッサージ”というのを普及させてきたボランティア。被災者が、暖かいお湯に足を入れていると気持ちよくなり、こちらから聞かなくても被災者は語り出す。こちらから聞き出さなくても、語り出す。そうした自然体の中でのコミニュケーションには重要な意味合いがある。私たちは、これを”つぶやき収集”と言っている。こうした形で、被災者のニーズを探りながら、適切な支援を考え出すのが吉椿流といえる。何でも28日には、キャンプ・ジャパンで新潟中越の話をすることになったらしい。是非パキスタン版”足湯”を開発して欲しいものである。彼が被災者と接する姿を見ていると、ノーベル経済学者のアマーティア・センが言った次の言葉を思い出す。その言葉を紹介して、私のパキスタンレポートを終える。
--君がスラムの人たちを前にして考えるべきことは、彼らのニーズは何かということではなく、もし彼らが本来の力を発揮する自由を与えられたならばどう行動するか、ということ。そして君はどのようにしてその自由を拡大できるかということである。--
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つぶやきレポート「パキスタン被災地の今」  Scene.20

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【写真】シャナラマラー村の様子

3月 ムザファラバード
 再び、ムザファラバードの大学テント村。
いつも快く通訳を引き受けてくれるマリックくんの家のある村に行ってみた。市街地からリキシャー(バイクタクシー)で山の手の方へ10分も走るとそこが、タルカバード(地震前の人口約6000人)だ。やはり山の急斜面に家が階段状に連なっている。「へばりつく」という表現がぴったりだ。崩れかけた細い階段と路地を降りていくとマリックくんの家があった。家は一見普通に建っているが、典型的な窓から屋根とか、かべの角へと亀裂がいたるところに入っている。すぐ横のコンクリート堤防は見事に地すべりで下の家の庭へと落ちていた。「実は地震がくる前からここは危険な所だという話もあったんだ」「ここはプレートの上にあるんだ」とマリックくん。たしかにこの斜面に家が密集していれば、雨季の大雨の時などは危なそうだ。
 反対側の集落は一面崖崩れで石灰岩質の岩肌がむき出しになっている。シャナラマラー村(地震前の人口約4000人)という集落だ。ここには斜面ではないが、3階、4階建てのアパートのような集合住宅がほとんど倒壊した。地震後、イスラマバードなどの大きな都市に避難していたが、今は、近くのテント村に戻ってきて、昼間は家の片付けなどをして夜はテント村に戻って寝るという生活をしているそうだ。
 マリックくんはここで仲の良かった友達を亡くしている。ガレキの中を歩きながらマリックくんに「今後の復興に関してどう思う?」と聞いたら、彼は、「まずは、政府の方針をはっきりしてほしい。それによって個人が再建を考えるのに。。」と。多くの地すべりを起こしているムザファラバードでもテント村を追われるように元の集落に戻り、家を再建しようとしている。彼らにとって帰る場所がそこしかないからだ。
政府が専門家を派遣して「ここは危ないエリアだから住んではだめだよ。」とはっきり言ってあげる事だけでどれだけ「安心」する事か。。。
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つぶやきレポート「パキスタン被災地の今」  Scene.19

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【写真】パキスタンの警察所
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【写真】倒壊した建物を再建中

 久しぶりにバラコットに戻った。
パキスタン政府の発表では、3月31日に全テント村を閉鎖するとなっているが、あと数日でこれだけの規模のテント村が、綺麗になくなるとはとても思えない。
街の中心では、地震によりことごとく倒壊した公共機関(病院、警察、役所、郵便局など)の建物がいち早く再建されている。また、個人レベルでの再建もかなり進んでおり、ちょっとした建設ラッシュだ。だが、それは、一部の自己再建できる力のあるもののみだ。中心を流れる川の東側のガラット村でも仮の住まいを地震前と同じような細い木枠に日干しレンガを積み上げた形の家屋を建てている姿も目につく。
 久々にムニールさんにお会いした。
毎回、何をしてあげている訳でもないのに出会いをとても喜んでくれる。最近は、親しい者同士がやるハグをしてから握手をする挨拶に変わってきた。僕の持ってきた手土産のカシミールクッキーを周りの友達、弟に「 ほら見ろ!ブラザーのYOSHIが土産を持ってきたぞ!」と恥ずかしいくらいに紹介してくれる。今日は、無くなった弟さんの息子ネビーアくん(1歳7ヶ月)が遊びに来ていた。彼はこの幼さで両親を亡くしている。その現実を理解しているのか、いないのか、ムニールさんの生き残ったもう一人の弟さんの後をずっと「おじさん、おじさん」とくっついてまわる。ムニールさんが、「この子は天涯孤独」だ」と何度も言っていた。でも、ネビーア君が寂しくないよう、きっとムニールさん達、が皆で面倒を見ていくに違いない。ムニールさんの周りにはいつも人がいるが、女性の姿を見ない。こんなところで女性の被害が大きかった事に気付かされる。
 ムニールさんのテント小学校に行くと、そこではユニオンカウンシル(村のひとつ上の行政単位)の人々がガラット村の被災状況(被災者数、家族、被災家屋など)を調査していて、登録手続きをしていた。行政による「公助」と「自助、共助」がうまくかみあっているのだろうか、ふと疑問が頭をよぎった。
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つぶやきレポート「パキスタン被災地の今」  Scene.18

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【写真】耐震住宅のワークショップの様子

3月 ムザファラバード
 3月31日。政府の決めた、テント村閉鎖の最終日だ。
その日がだんだん近づいて来るにつれて、元いた村に帰る人々も出てきた。
ジャパン・プラットフォームの運営する「Camp Japan」でも、もうすでに帰還が始まっている。これから地域に戻って、再建、復興を行っていく人々に向けて、ワークショップが開かれた。
地震のメカニズム、耐震性住宅の必要性、イラン地震での事例などが各分野の専門家から話された。僕も中越の経験を話させていただいた。写真に映る
中越の山の風景は、パキスタンの被災地にも似ている。
「棚田は俺たちの村にもあるぞ!!」とか、雪の写真に
「このあたりよりもすごい雪だ」という声も聞こえてきた。
「一年半たった今でも中越の人々は、仮設で暮らしながら頑張っています。
そこには『くらしの智恵』がいっぱいつまっています。皆さんも地震を機
に、改めて自分たちの防災につながる、くらしの智恵を掘り越してみて下さ
い」と伝えさせてもらった。
そこに被災地どうしの共感が生まれれば幸いである。
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パキスタン出張報告

 CODE事務局長の村井です。3月22日から26日までの駆け足で、パキスタン地震以後初めてのパキスタン入りをし無事26日帰国してきましたので簡単にご報告しておきます。今回の調査は、パキスタン・ローコスト耐震工法普及についてのJICAミッション(パキスタン・ローコスト耐震補強プロジェクト形成調査)でもあったため、これまでCODEが調査してきた被災地バラコットやバタグラムまでは詳細に訪問できなかったのが残念です。それでも駆け足で、先に入っていた吉椿さんの案内でいくつかのテント村も訪問させて頂き、地震発生後半年を前にした被災者の状況を見ることができました。まず第1報として、ローコスト耐震補強工法のデモンストレーションについてのみレポートします。
————–
 CODEとしてパキスタン入りは二度目になるが、今回は昨年10月8日に発生した「パキスタン地震」に関連して、「パキスタン・ローコスト耐震補強プロジェクト形成調査」というJICA案件での訪問である。具体的には、東京大学生産技術研究所・都市基盤安全工学国際研究センター目黒公郎教授提案による「PPバンド仕様のローコスト耐震補強」の普及啓発のためのデモンストレーションへの調査団としての同行だ。CODEは、このローコスト耐震補強工法を被災住民に普及させるための現在の被災者の生活状況を調査するという役割である。
 さてこの工法は、ホームページの「Meguro Lab.」で詳細が紹介されているので省くが(今HPを改装中でリンクが切れているようです)、海外でのお披露目は初めてではない。この「PPバンド仕様のローコスト耐震補強」を簡単に説明する。対象としている住宅のタイプは、例えばレンガやブリックを積み上げて、屋根を乗せただけのタイプであり、こうした構造を「組積造」といい、世界中の住宅の中でも、アドベ住宅(土壁)、石組み住宅、レンガ住宅などの組積造構造住宅は6割を閉めるそうだ。木の文化を住まいにも取り入れてきた日本の住宅文化からすると以外な数字かも知れない。今回のパキスタン地震で倒壊した住宅の多くもこれだ。この工法は、組積造構造の壁を一体化し、強い地震で揺れても倒れないということを目的として考案されたもので、網目模様に接着したPPバンド(荷造り用のポリプロピレンバンド)で、壁を包み込むようにし、屋根の横軸柱ともPPバンドでつなぎ、一つひとつバラバラのレンガ壁を一体化するというもの。
 こうした単純にレンガやブリックを積み上げただけの住宅は多く、今回のパキスタン地震だけではなく、01年のインド・グジャラート地震、02年アフガニスタン北西部地震、03年イラン・バム地震などが代表的な事例で、なんとこれらの地震だけでも、10万人以上が亡くなっている。倒壊家屋数は相当なものである。「何故、これくらいの住宅に耐震が施せないのか?」と、阪神・淡路大震災以来、地震が起こるたびに悔しい思いをしていた。地震によるこんな被害をいつまで繰り返すのだろうと危惧していたが、2年ほど前にこの工法を知った。研修会などで目黒教授とご一緒したときに、直接教授からパソコン上で実験結果なども見せて頂いていた。やっと画期的な耐震補強工法が生まれた。ケースによって様々だが、建築費の5%以下で押さえられるところが低所得所得者層には魅力だ。これまでも教授は「1ドル以下で出来る耐震補強!」と言っていたが、今回のパキスタンでのモデル住宅(約60平方メートル-2部屋)は、材料費は3000円ほどで工賃を含めても3万円程ということだ。地震後の諸物価の高騰もあり、工賃は倍に跳ね上がっているため通常より高くなる。
 そもそも災害直後の応急対応期には、避難所から仮設住宅ありきではないという「災害後の仮住まいのあり方」を考えると、瓦礫の片づけやある程度の住宅再建に関する労働には、公的支援が拠出されてもいいのではと思う。何故なら、被災者もできればいち早く自分の力で稼ぎ、しかるべき税金も払える納税者となり、コツコツと暮らし再建の道を歩みたいものだ。そういうシステムになると、例えばこの「ローコスト耐震補強」にかかる費用もわずかな材料費だけですむことになる。実物大のモデルハウスでも実験済みだが、数千円で尊い命が守られるなら安いものだ。
 今回被災地のムザファラバードで実験したのは、6分の1モデルでの実験だが、生憎終日激しい雨という中で約300人が集まり、実験が終わるまでの3時間ほどは誰も席を立つものがなかったほど真剣に目黒教授のプレゼンテーションに耳を傾け、また振動台で揺らす実験に見入っていた。参加者にはエンジニアや石工たちも数多くいたように見受けた。是非、技術者が理解し各々の被災地において、住民の住宅建設に指導を入れて欲しいと願う。最低一人の習熟した技術者がおれば、あとは地域の住民がボランティアで参加し、工法を覚えればできることでもある。この目黒提案がこうして世界中に発信されたということは、阪神・淡路大震災以来耐震をいい続けてきた被災地KOBEの私たちにとっては、この上ない朗報であり、こういう形ではあるがみなさまとも共有したい。
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つぶやきレポート「パキスタン被災地の今」  Scene.17

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【写真】倒壊したモスクで祈りを捧げる男性

3月 ムザファラバード
 イスラム国家であるパキスタンでは、「インシャラー」という言葉がある。「神の意のままに」という意味であるが、日常生活の中でよく耳にする。約束などをする時に「たぶんね!」とか「気が向いたらね!」というような意味でも使う。
 今回の被災地のひとつでもあるマルセラに一年ほど住んでいる日本人女性にお会いした。彼女も地震当日は家の中が危ないので、布団を持ち出して、外の道路に敷いて、一夜を明かしたと言う。
その後、テレビで地震当時の映像が流れたのを見たそうだ。
揺れる地面の中で、人々がとった行動は祈る事だった。
神の怒りが静まるのを待つという。非常に信仰の厚い人々である。
が、外にとび出していれば、助かる命もあったのでは…と思うと複雑である。
防災教育などの必要性を感じると同時に、難しさも感じる。
生きるも死ぬも、「神の意のままに」という風に思う人々であるから、彼らの信仰も尊重しながら「減災」という事も一緒に考えていきたい。
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つぶやきレポート「パキスタン被災地の今」 Scene.16

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【写真】NSETのビジャイさん(前列左から二人目)

3月 ムザファラバード
 N-SETというNGOがネパールにある。彼らは建築家の専門だ。
過去にCODEもイランやインドの被災地でお世話になっている。
今回もパキスタンで、耐震住宅の普及で活動している。
そのメンバーのひとり、ビジャイさんはこう言う。
「耐震の家を数多く建てるよりも、現地のMASON(石工)たちを育てた方がよ
い。そうすれば彼らが自分たちで耐震住宅を普及させていく。そうすれば、彼
らが自分たちで耐震住宅を普及させていく。それこそ循環だ」と。
この地震多発地帯でさえ、時が経てば人々は忘れてしまう。
人々の意識を変えてゆく事は、ゆっくりとした行程だとも言っていた。
パキスタンと言語や文化も近いネパール人建築家の技術と経験に裏打ちされた
自信のようなものを感じた。あせらずに、じっくりと時間をかけて、パキスタ
ンの人々の思いや暮らしを見つめていくしかないのかもしれない。
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つぶやきレポート「パキスタン被災地の今」 Scene.15

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【写真】倒壊したアリ君の家

3月 ムザファラバード
 昨年11月に初めてムザファラバードの大学のテント村を訪ねた際に、
通訳をやってくれたアリ君(30歳)に再会した
昨年同様、フランスなどのNGOで働いているらしい。
大学のテント村で再会した。アリ君と仲の良いユーセフミールさん(35歳)の
テントでチャイを頂きながら、お話しした。
実は、アリ君自身も被災者である。
テント村には住んでいないが、歩いてすぐのマーケットの中に家がある。
アリ君に案内してもらった。にぎやかに再会しているマーケットの路地を少し
入ったところにアリ君の家はあった。
1947年に建てられたという二階建ての大きな家は、
原形をとどめない程に倒壊していた。
「ここで母が、ここで姪が、ここで甥が、亡くなったんだ」
と当時の状況を語ってくれた。アリ君は外出していて、ちょうど戻ったところ
で、玄関の前で、わが家が崩れ落ちるのを見たと言う。
亡くなった家族のそれぞれの写真を財布の中に大事にしまっていた。
彼は今も、その悲しみを紛らわすかの様に、NGOで働いている。
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つぶやきレポート「パキスタン被災地の今」 Scene.14


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【写真】(上)むき出しになった山肌
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【写真】(上)ムザファイルさんの村は地滑りで崩れてしまった

3月 ムザファラバード
 ムザファラバードは東西を山に囲まれ、街の中心を南北にニラム川が流れる。街の東側斜面の山肌が、今は真っ白になっている。すべて地震による地滑りで山肌が削られ、石灰岩質がむき出しになっている。その斜面には多くの村が点在している。
マクリー村もその一つだ。
大学テント村に暮らすムザファイルさん(48歳)もそのマクリー村の出身だ
(ちなみに、ムザファラバードは「ムザファイルの町」という意味)。
家族、親せき17人で3つのテントで寝泊まりしている。
ムザファイルさんは8人の子どもたちのお父さんだ。
そのムザファイルさんの案内でマクリー村に行ってみた。
車で約20分、道路から急斜面を歩いて上がる。
約1時間くらいの登山だ。
村は急斜面にへばりつくように点々と家が続く。
この村は街から近いこともあり、ほとんどの人が街に働きに出ていたそうだ。
山の一番高いところには小学校があり、子どもたちが通っていた。
村には女性のための裁縫の学校もあったそうだ。かつてはここに約5000人が暮らしていた。
ムザファイルさんの家は急斜面に建っていたため、地滑りで家は全壊していた。「政府は今月末でテント村を閉鎖して、村に帰れという。でも、この崩れた場所のどこに住めというのか?」
「政府はこの村の状況は、何も分かっていない」
と、ムザファイルさんは言う。
山頂付近では、地割れを起こしていて、そのすぐ向こうには最大の地滑り地帯が見渡せる。
この土地に愛着はないのと聞くと
「別に田畑を持っているわけではないから・・・。それよりもここは危険だ」と言っていた。
ムザファイルさんは、最愛の弟さんを亡くしている。
倒壊した家屋の下敷きになった遺体を運び出す時、右足が瓦礫に挟まれていて、やむを得ず足を切断したそうだ。
イスラム教では、土葬でわかるように体に傷を付けることを禁じられている・・・。
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つぶやきレポート「パキスタン被災地の今」 Scene.13

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【写真】ムザファラバード

3月 ムザファラバード
 毎日、大学グランドのテント村に通っていると、子どもたちは顔を覚えてくれる。「Hello!!」「How are you?」と声をかけて握手を求めてくる。
そして、手をつないでずっとくっついてくる。
「変な外国人が毎日来ている」と思っているのか、写真を撮ってほしいのか、大勢の子どもたちに囲まれる。
今日は通訳であるマリック君がイスラマバードに行って不在だったので、子どもたちと身振り、手振り、片言のウルドゥー語で会話してみた。一人の子は山の手の村から、もう一人の子はタルカバードという近郊の小さな街など、あちこちから来て、このテント村で知り合って仲良くなったようだ。
と、突然、背中に強い衝撃が・・・。
髪の毛がボサボサで裸足の女の子が「頭突き」で体当たりしてきた。
痛かった・・・。
よく見ると、その他の大人や子どもたちにもゾウリでたたいたり、体当たりしたりしている。近くにいた大人が「あの子は、地震後にあんな風に精神的におかしくなっちゃったんだ」と教えてくれた。
震災が奪ったものがここにもあった。
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