月別アーカイブ: 2006年6月

ジャワ島中部地震ニュース 第23報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.6

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【写真】最大の被災地、バウラン村

バントゥル県の中でも最大と言われる被災地、バウラン村は、二つの集落からなる。そのバウラン第一集落に近づくにつれの倒壊した家屋が増えてくる。車を止め、村に足を踏み入れると唖然とした。ほとんどの家屋が全壊だった。半壊の家屋などほとんどなかった。「すごい。。。」という言葉しか出てこなかった。
このバウラン第一集落は260世帯(約1600人)、6つのRT(隣組)からなり、そのうち73人が亡くなったという。今なお病院にいる人も多い。ある人は、私立の
病院に行ったが、お金が払えずに治療をしてもらえず
帰って来たという。地震後、3日かかって
村の人達や軍の人によって遺体が出されたそうだ。
この1週間を人々はどんな思いで過ごしてきたのだろうか?

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【写真】築5年の家の細い鉄筋

やはりほとんどの家屋は鉄筋の全く入っていないレンガの家だ。鉄筋の入った5年前に建てたという家もガレキと化していた。
ジャーナリストでこの村出身のUTOMOさんが言うには、この村の多くは農業に従事しているが、田んぼを持たない小作農民がほとんどで小さな田を耕して暮らしている。また、昔は集落の中に沢山の竹などの木々があったが、建築用材として伐ったのでバナナやヤシの木ぐらいしか残っていない。そんな様々な状況が、この脆く安価な低品質のレンガの家を主流にさせたのかも知れない。。。
【学校でも報告します】
神戸学院大学と神戸工科高等学校の授業のなかで報告させていただくことになりました。他の学校でもご希望があればご連絡下さい。

ジャワ島中部地震ニュース 第22報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.5
インドネシアには、ゴトンロヨンという相互扶助の精神が今もなお息づいている。農村部の稲作共同社会において人々は、田植えや稲刈りの際に互いに助け合う。労働を労働で返す事もあれば、稲刈りの労働を収穫の現物や金銭でもらう事もあるという。その共同社会を支えるコミニティーシステムにRT(近所との協調という意味)という隣組がある。約30から50世帯が集まって一つのRTを形成し、日頃の地域の清掃活動、冠婚葬祭の手伝いや役場の窓口業務も担う。このRTは、戦時中日本が持ち込んだ制度で「Tonarigumi」という言葉が今も残る。時に、五人組のように行動や思想の監視にも使われたという。

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【写真】トゥキディさんの孫娘と「まけないぞう」
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【写真】ゴトンロヨン(相互扶助)で皆で収穫

バントゥル県のスゴロヨッソ村のクロロン集落の第三RT長である、トゥキディさん(56)は、大工の手伝いなど何でもやる日雇い労働をやり、奥さんは野菜の卸売りをやって生計を立てている。ちょうど前日にRT内の被害状況を調査して村役場に提出したそうだ。また、地震後から目につく道路沿いにPOSKOを設置し、皆で物資の確保、配給にあたっている。
政府から何か話しはあったかと聞くとトゥキディさんは、「そんなもんはない、政府からの支援金もちゃんと届くかどうか。。。」 地域の人以外のボランティアは来てるかと聞くと、「ガレキの下にまだ財産が埋まっているので、親戚以外は入れさせないようにしている。身元の分からない人を入れるのは怖い。」という。コミュニティーが強い分よそ者への警戒も当然つよくなる。夜は皆で交代で夜回りをしているほどだ。このコミュニティーを上手く使えば、しっかりとした減災、防災への取り組みが出来るのではないだろうか。。。最後に「政府の援助無しには、再建ができない。ただ政府の方針を待つだけだ。」と、貴重なお茶を振る舞ってくれた。
  
傷つき、打ちのめされた被災者たちはいつもやさしい。。

ジャワ島中部地震ニュース第21報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.4
被災地であるバントゥル県の人々は、多くは米やトウモロコシ、サトウキビなどを作って生計を立てている。その他、ジョクジャカルタへと出稼ぎに出る人も多いという。同じ集落でも主要道路沿いの家々は一目で被害が見えるが、細い道を入った奥の家の状況は見えない。また、主要道路沿いに作られた水田の向こうにある集落はなおさらの事である。それが物資配給の格差を生みだしたのかもしれない。 


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【写真】柱の中の細い鉄筋
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【写真】半年前に建てた家の屋根も崩れた

プレレット郡のウォノクロモ村に住むあるおばあちゃんの家は1985年に建てたが、全壊した。ガレキの中に柱の残骸があった。中には非常に細い鉄筋が二本だけ入っているのが見えた。そのガレキの中で旦那さんは使える資材を一生懸命に集めていた。その資材を使ってきっと仮設の小屋を作るのだろう。。。。
向かいの家は、半年ほど前に建てたが、この地震で屋根が崩れ落ちた。壁の部分は鉄筋コンクリートを使っていはいたが、構造や資材がいかに脆いかが容易に想像できる。やはり「耐震」である。人の命を守る為には。。。
【報告会のお知らせ】
被災地で撮影した写真を使って、被災地の生の声を報告します。
皆さまのお越しをお待ちしております。
 日 時 6月20日(火)18:30~20:30
 場 所 神戸YMCA 423教室
 報告者 吉椿 雅道(CODE臨時スタッフ)
*神戸YMCAへの行き方は、ホームページ
(http://www.kobeymca.or.jp/kobe/wellness/index.html)
をご参照下さい。お申込み、お問い合わせはCODE事務局までお願いし
ます。
*報告会を企画しませんか?
遠方でも交通費を出していただければ報告に行きますので、お気軽に
ご相談下さい。

ジャワ島中部地震ニュース第20報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.3
ジョクジャカルタ市内から数十分も走ると最大の被災地、バントゥル県に入る。事前の情報では被災地への道は救援物資の運送や知人の見舞い、見物客などの車やバイクで渋滞だと聞いていたが、それほどでもなかった。

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【写真】レンガの説明をするエムダルスさん
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【写真】レンガのつなぎは土のみ

バントゥル県の断層の上にあるプレレット郡も大きな被害を受けた。ウォノクロモ村のジャティー集落(325世帯)に住む、エムダルスさん(64)とソウリキさん(66)の兄弟は、ガレキの山の中から使えるレンガを拾い集めていた。1953年に建てたという自宅は全壊し、後に91年に増築した母屋は鉄筋を使っていた為か、被害はあまりなかった。政府からの支援はないので兄弟、親戚で助け合って暮らしているという。辛うじて残った台所の壁を見てみると、やはりレンガとレンガのつなぎは土で、指でさわるとポロポロと取れてしまう。レンガも決して強いとは言えないのうだ。エムダルスさんはそんな僕を見て、「昔のレンガは強かったんだがな..最近のレンガは商業主義で質が悪い。昔は自分達で自分達の為にしっかりとした家を建てたもんだ。」と語った。
本来、ジャワでは木材を多くつかった伝統家屋が主流だった。70年代以降の木材の高騰により農村部では急速にレンガ造りの家屋に変わって行ったという。これは日本との関わりを考えざるをえないのではないか…
*関連団体の動き*
芦屋に住む、グラフイックデザイナーの小西雅さんが、ジャワ地震の直後から、ポストカードを作って支援活動をしています。小西さんは、偶然地震の2週間前までジョグジャカルタに旅行に行かれていて、この地の魅力に取り憑かれていたそうです。旅行中に撮っていた写真を材々にしてポストカードにし、販売した収益を「神戸新聞厚生事業団」を通してジャワ再建に使われます。
(http://www.sobani.net/jogja.htm)
ジャワ島中部地震救援募金にご協力下さい
 郵便振替:00930-0-330579 加入者名:CODE
 *通信欄に「ジャワ島中部地震支援」と明記してください。
募金全体の15%を上限として事務局運営・管理費に充てさせていただきます

ジャワ島中部地震ニュース第19報

つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.2
ジョクジャカルタの街は、王宮を中心に広がるが、それを象徴するかのように地震直後、多くの被災した人々がバントゥル県から王宮を目指して避難して来ている。「スルタン(イスラム王侯)の近くにいるだけで心安まる。」という方もいる。と同時に大きな街にいた方が物資が手に入るという事、そして「津波が来る」という噂で約20㎞近く離れたジョクジャまでやって来た人々もいる。その王宮広場に設置されたPOSKO(ポスコ)では、ボランティアや被災者自身が、物資を集めてきて分配している。その他、伝統的な骨折治療(骨接ぎのようなもの)も行っているそうだ。

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【写真】プンドンから避難してきた家族

広場のすぐ西にあるモスクにも多くの被災者の人々が寝泊まりしている。ある家族にお話を聞いた。バントゥル県の南部のプンドンという地区(約1000人)から避難してきたそうで、現在このモスクには約160人が避難していると。どうしてこんな遠くまで来たのかと聞くと赤ちゃんを抱いたまだ若いお母さん(19歳)は、「家が壊れて村で寝るところがないからだよ。テントが手に入れば今すぐにでも戻りたいよ。。」と語ってくれた。
ふとあることに気づいた。ここにいるのは女性と子供達ばかりで男性の姿がない。
どうしてかと聞くと「昼間はみんな物資を探しに行っているよ」と言う。自分たちの事は自分たちでやろうとする気持を感じた。でも最後に「NGOだったら食料でもお金でもいいから何かくれ。」と言われた。緊急のこの時期に復興に向けた調査の旨を伝えてもなかなか理解してもらえない。無理もない事だ。だが、その先のより長い復興の事を見据えている人がきっといるはずだ。そう信じたい。。。
*関連団体の動き*
HuMA:災害人道医療支援会(Humanitarian Medical Assistance)。国内外での大きな災害時に医療チームを派遣したり、災害医療にかかわる人々の教育研修を行う。ジャワ島へは先見調査隊がすでに帰国し、医師2~3名、看護師2~3名、調整員2~3名の医療チームを5月31日から6月25日まで派遣する計画です。
(http://www.huma.or.jp/)

ジャワ島中部地震ニュース第18報

6月12日に被災地から帰国した吉椿から、つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」として、
現地の声をお伝えします。
つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」Scene.1 

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【写真】崩壊した空港ターミナル

5月27日。その日、中越地震復興のフォーラムで名古屋にいた。ホテルで何気なくTVをつけるとジャワの被災地の映像が飛び込んできた。正直「またか。。」と思った。名古屋に集まっていた関係者の間でも話題になっていた。そして情報収集を行い、日本を飛びたったのが6月3日。今回、縁あって通訳としてこの3月までジョグジャカルタに留学していた学生の方に同行してもらい、事前に現地事情を聞き被災地に入った。 
古都ジョクジャカルタに降り立つとにすぐにガレキと化した空港のターミナルが目に飛び込んできた。重機が取り壊し作業を行っていた。ホテルに向かう道では最近出来たばかりのショッピングモールの壁が剥がれ落ちた姿や無惨にも倒壊した家屋、大学などが点々と存在している。
ホテルで打合せを終えるととすぐに夕暮れまでの僅かな時間を使って市内の避難所のひとつ王宮広場へと向かった。王宮に接しているジョグジャ一の繁華街、マリオボロ通りは今日再開したばかりだという。だだっ広い王宮広場にはチラホラと被災者のテントらしきものが見える。そっと寄って行って声をかけてみる。被害のひどいバントゥル県のイモギリという地区から地震直後に親戚や近所の14世帯と共にここにやって来たという家族。自宅は半壊だという。「王宮に来れば食料などの物資があると思いやって来た。」 が、その後マスコミなどの報道によりバントゥルが有名になり物資がそっちに行ってしまい、ここは足りないと言う。近所の住民に食料をもらったり、同じ広場に設営されたPOSKOと呼ばれる物資配給所に集まってくる物資をもらって過ごしている。「早く戻って家を再建したい」と最後に言っていた。
*関連団体の動き*
シャンティ国際ボランティア会:1980年に「曹洞宗東南アジア難民救済会議」として、タイにおけるカンボジア難民救援ために発足したNGO。阪神淡路大震災の復興支援も行う。ジャワ島にスタッフを派遣して、子どもの支援を開始。(http://www.jca.apc.org/sva/)

ジャワ島中部地震ニュース第17報

これまでにも何度か話題としましたが、被災地には相互扶助の精神が浸透していると言われています。それは「ゴトン・ロヨン」と現地では言っており、稲作農家の共同作業に起因するそうです。被災地の農村では、二毛作、三毛作というシステムになっており、それだけに農作業が一斉になることなく、多少の時間差作業をつくることで、お互いが農作業を助けあって行うことができます。
日本でも、昔から「講」「結」などという相互扶助のしくみがありますが、今回のような災害後の助けあい、支えあいによる復興を成し遂げようとするならば、最もふさわしいしくみといえるかも知れません。報道によると、ジョグジャカルタ特別州知事、スルタン・ハメンクブォノ10世も「住宅復興はゴトン・ロヨンで行われるのが望ましい」と言われています。
ただ、耐震化を伴う住宅建設については、最低限の耐震基準や技術を徹底しなければ、再び地震が襲えば、また同様の被害が起こります。津波対策でいう「とにかく逃げる」というのと同じように、地震対策では「壊れない建物づくり」が至上命令のようなものです。「ゴトン・ロヨン」で、浸透させないといけないのは、「減災」だと言っても過言ではないような気がします。
*テレビ・ラジオ放送のお知らせ*
今日(14日)讀賣テレビ午後6時16分からの「スクランブル」で、ジャワでのCODEの調査活動が紹介されます。
6月18日午前8時~8時半の「FM COCOLO」の「On the Move」に吉椿が電話出演し、ジャワ島地震被災地支援活動について話します。時間があれば、是非ラジオをお聞き下さい。(周波数は765)
*関連団体の動き*
京都に本部を置くNGO「NICCO」(日本国際民間協力会)さんは、すでに第一次調査団を現地派遣し帰国しています。今回は、移動診療活動などを主に展開するそうです。(http://www.kyoto-nicco.org/JavaRep.htm)

ジャワ島中部地震ニュース第16報

昨日帰国した吉椿さんから、現地の写真などを見ながら、いろいろな情報を聞くことができました。詳細は、後ほど昨日もお知らせしましたように、現地レポートを出して行きたいと思います。
  
写真を見ていて思ったことは、住宅でも全壊している家はともかく、半壊や一部損壊で残っている部分をみると、日本の昔ながらの在来工法による木造建築の特徴がチラホラ見受けられます。例えば、建物の軸組の大切な柱が釘を使わずに組み立てられているのです。また、数十㍍もある長屋のバザールの建物は、大きくは壊れていません。ここも、屋根と柱の部分が木材を使っており、その両者がしっかりとつながっている。さらに基礎となる地の部分は、布基礎しっかりとコンクリートで布基礎問われるからだと推測できます。
また、田んぼの中のあちらこちらに、タバコの葉などを乾燥させるための、すべて竹でつくられた小屋?が建てられています。小屋といっても高さ15㍍、長さ50~60㍍というほどの大きなものもあり、これらがほとんど壊れていないという現実には目を見張るものがあります。
中心地から離れた被災地は、幹線道路を走っていると一見よくわからず、ヤシやバナナの木をかき分けて奥に入ってみると、なんとある地域は全滅という光景が目の前に広がるようです。みなさんも新聞やテレビなどで家が壊れている映像を見られた方は、気がついておられると思いますが、建築資材として木材や竹がかなり使われています。極端な言い方をしますと、もともとその地域に生えていた木や竹をほとんど伐採して、(輸出も含めて)建築資材などに使い、残ったのがバナナとヤシの木という見方もできます。ちょっと複雑な思いが交錯しました。それにしても、その一帯が全滅ということは地盤の関係があるのかしら・・・・・・。
*テレビ放映のお知らせ*
今日(13日)讀賣テレビ午後6時16分からの「スクランブル」で、ジャワでのCODEの調査活動が紹介されます。もし、お時間があれば是非見て下さい。
*関連団体の動き*
阪神・淡路大震災後の被災者支援およびその後の国内災害の被災者支援し続けている「日本基督教団兵庫教区被災者生活支援・長田センター」が、今回のジャワ地震に対する救援活動を展開しています。
(http://www.hi-net.zaq.ne.jp/bucms202/)

ジャワ島中部地震ニュース 第15報

6月4日から現地入りしていたスタッフ2名は、今朝無事に帰国しました。今後「つぶやき」なども含めて追加のレポートを発信していきますが、まずは帰国第一声をお届けします。なお、報告会を下記の通り行いますので、是非ご参加下さい。
本日、インドネシアのジャワ島より帰国しました。8日間という短い時間でしたが、震災後1週間の被災地の状況と中長期的な復興支援の調査を行って来ました。古都であるジョグジャカルタには伝統的な文化(人形劇、バティック、陶器、舞踊など)が息づいており、それを支える人々も今回の地震で多くが被災しています。また被害の大きかった農村部のバントゥル県、クラテン県は経済的には決して裕福とは言えないエリアですが、そこには豊かな田園と強いコミュニティー力があり、互いに助けあいながら今日を過ごしています。また今回、インドネシア政府も早い復興のビジョンを描きつつあるようです。(どこまで現実のものとするかは分かりませんが、、)
また、注目すべきは学生のボランティアがかなり組織的に動いている事です。緊急的な物資配給から子供達へのトラウマケアや仮設住宅(学校)の再建などの復興支援にもかかわっていくようです。現地にある地域力、文化を生かしながら、日本のボランティアとの連携も使いながら、これからの長くなるであろう復興への道程のお手伝いができればと思います。(吉椿雅道)
*報告会*
 日 時 6月20日(火)18:30~20:30
 場 所 神戸YMCA 423教室
 報告者 吉椿 雅道(CODE臨時スタッフ)
*関連団体の動き*
兵庫県立大学環境人間学部のO先生は、現地のアーティスト廣田緑さんが行っている草の根活動を関係者のみなさんに訴え、支援活動をしておられます。余談ですが、この県立大学環境人間学部は、11年前の阪神・淡路大震災直後の二日後に「阪神大震災 地元NGO救援連絡会議」を立ち上げられた草地賢一さんが、2000年1月2日に急逝する前まで、約2年間同大学で教鞭をとっておられた大学です。廣田さんの活動についてはHPをご覧下さい。http://midoriart.exblog.jp/m2006-06-01/

ジャワ島中部地震ニュース 第14報

地震発生から2週間が経過しました。悲しいことですが、前途に絶望されたのか自殺者がでています。こういう時は、とにかくまず「安心」なのでしょうか。阪神・淡路大震災の時、重度障害者がレスキュー隊に救助されたのはいいが、とんでもない遠い遠い病院に連れて行かれ、言葉では言い表せないほどの不安感、恐怖感を味わったという当事者の話を聞いたことがあります。救助する側は、まず「安全」な病院へ避難させようと思われたのでしょうが、同時にまず「安心」して貰うことが必要だという教訓だということでしょうか。ジャワの被災者が今、不安に思っていることの一つに、「住宅を再建しても、また簡単に壊れないだろうか?」ということがあるのではないでしょうか。
現地にいるスタッフの話によると、地震前から耐震住宅にしていた大学教授がおられ、その方の家は2階建て60平米で約90万円の費用がかかったそうです。今、政府が全壊家屋に補償しようとしているのは、30万円とか40万円という数字が飛び交っているとのこと。もしそうだとすると、耐震にするには倍以上の費用がかかる。
しかし、よく考えてみると「減災」という視点からすれば、今のところ地震対策の最優先課題は「住宅の耐震化」ではないのでしょうか。阪神・淡路大震災がそれを証明していますが、家さえ壊れなければ多くの死傷者はでないのです。ならば、そこに住む人たちがこういう災難を機に、「住宅耐震基金」のようなものをつくり、そうした自助・共助を、官が補完するような法制度ができないものなのかと思う。そうしたしくみができるまでは、せめて一部屋だけでも強固なつくりにしてほしいものです。
*関連団体の動き*
昨日は、ジャワ地震救援の募金活動をしている高校生を紹介しましたが、今日は大学生を紹介します。神戸市西区伊川谷町にある「神戸学院大ボランティア活動基金」が、連日学内で募金活動を展開していますが、昨日からJR明石駅や神戸市営地下鉄名谷駅などでも展開しています。もし、駅で彼ら、彼女らを見かけたら、一言声をかけて下さい。http://www.kobegakuin.ac.jp/