今回は、吉椿の「つぶやきレポート」はお休みさせていただきます。代わりに、<コンパス>という現地新聞を通訳で同行してくれた岡部さんが訳してくれましたので、お届けします。
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公共事業省は、ジョグジャカルタ特別州(DIY)と中部ジャワ州の182の村に4000以上の耐震の家を造るという、まず初めのプロジェクトを7月に始めることを決定した。このプロジェクトは再建をしようとする住民のモデルとなるだろう。
DIYでは被害がひどい112の村に2700戸が建設され、一方でクラテン(中部ジャワ州)の70の村では1600戸の家を受ける。
また、各村には井戸や灌漑用水のような基幹インフラ復旧のために2億ルピアが支給される。このプロジェクトには公共事業省、都市貧困対策計画
(P2KP)から資金が提供される。
「私たちはDIYと中部ジャワ州のために約2千万USドル(1860億ルピア)の予算を取り分けます。推定で、40m2以上の広さの家で最大3千万ルピア、それ以下の家は1平方メートルあたり75万ルピアで計算して支給します。」と、イモギリ、スリハルジョ村に耐震の家の建設技術の広報活動に来ていたダニー・スジョノ(P2KPユニット・マネージメント・プロジェクト長)の話。
しかし、スリハルジョ村は1239戸の家が全壊したが、政府からはたった10戸のモデルしか割り当てられない。一方で誰がその家を受け取るかの選考は村側に任せられる。
ダニーは住民がすでに示したような家の構造のスタンダードを従うように警告する。彼は、現在、耐震の条件を無視した、1000万ルピアから1500ルピアで安く建設できると言っている幾つかのNGOが存在することを例に挙げている。
「いい加減な建設ではなく、木造の家、壁の家、レンガを半分使った壁の家など、どのような条件で建設すればよいかという、技術の指針をここに私たちは持っている。」とダニー。
このモデルの建設は建設業者ではなく、完全に住民に任せられる。お金は段階的に家の援助を受ける人の銀行口座に振り込まれるだろう。建設は耐震の家のスタンダードの質を監視する建築技術者によって見守られる。(6月22日、コンパス紙)
月別アーカイブ: 2006年6月
ジャワ島中部地震ニュース 第32報
【写真】震源のパラントリティス海岸。 |
【写真】観光客のいなくなったレストラン。 |
つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.15
ちょうど1ヶ月前に起きたジャワ中部地震の震源地は、ジョクジャカルタから南西に25kmの海中と言われいている。震源に近いパラントリティス海岸に行ってみた。 震源に近いにもかかわらず海辺の集落の被害はそれほどひどくはない。 きれいな海岸沿いには海の家やレストラン、お土産店などが並んでいるが、どの店にも客の姿はほとんどない。同行してくれた学生ボランティアの女の子が言うには、普段はジョクジャカルタから沢山の人が、遊びに来ていたという観光地だったそうだ。
海岸線に一番近い海の家のお母さんに話を聞くと、地震の日の朝、お母さんはすでに起きていて店の開店準備をしていたそうだ。グラッと来てびっくりしたが、その場にいて逃げなかったそうだ。。「津波の心配はしなかったの?」と聞くと、お母さんは、スマトラの時のように津波が来る時は一度波が引く事を知っていて、今回は波が引かなかったから大丈夫だと思ったと答えてくれた。(ちなみに津波が来る時は必ず波が引くとは限らないそうだ。)
もし津波が来てたらと考えると。。また、今回の地震ではかなり多くの方が津波を心配して高台に逃げたり、海と反対の北の方へ避難したという話を随所で耳にした。ある人は20km先のジョクジャカルタの町まで逃げたという。やはり津波警報システムや津波に対する知識などの事前の備えを考えなくてはなるまい。
海の家のお母さんは、ぽそりと「地震後3,4日は、沢山の人が見物に来たよ。でも今は、さっぱりだね。。。」とつぶやいた。。。
ジャワ島中部地震ニュース 第31報
つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.14
【写真】村の共同調理場 |
【写真】ジャヤン村の人々 |
イモギリ地区のジャヤン村のではブルーシートと竹で作った簡素な共同調理場で当番制でお母さん達が料理している。お米は近所の農家の人が米を持ってきてくれるという。また、すぐ横には井戸を使った共同の水浴び場も作ってあった。女性が浴びる時は、見張り番を置くという。そして家をなくした多くの村人はトイレを川で済ませているという。また、全壊の人は勿論、半壊の人々も今尚続く、余震の恐怖の為家の前の道路にブルーシートの屋根だけの掘建て小屋をガレキの中から取り出した角材などで工夫して作り、そこに寝ている。年中30℃近い熱帯の気候では、寒さの心配はないが、それでも長期化してきているこの生活にはかなりの無理がある。
この村の第1RT長のカミジョーさんにお礼にほんの少しであるが、救援物資の食料を渡そうとしたらPOSKO(物資配給所)に入れてくれと言われた。個人が勝手に貰う訳にはいかないのだろう。村の掟である。
別れ際に中学校の先生のムジマさんに神戸からのメッセージ「まけないぞう」を渡すと、「今まで外国人はこの村には来ませんでした。もしお金があるのなら子供たちの為に学校を建ててください。」と。そしてこんな言葉も。。「あなた達が来てくれて、希望が持てました。いろんな事を聞いてくれて、私も頑張ろうと思いました。ありがとう。」
地震から一ヶ月。今なお、こうして人々は被災地で助け合いながら生きている。。。
*関連情報を「World Voice」(http://www.code-jp.org/wv)に挙げましたので、こちらもご覧下さい。
ジャワ島中部地震ニュース 第30報
つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.13
【写真】(上)ジャヤン村の中学校/(下)ムジマさんの全壊した自宅の前にて |
イモギリ地区のジャヤン村にある中学校には150人の生徒がいた。「今はまだ授業は再開してないわ。。。」とつぶやくのは、この中学校で教鞭をふるっていたムジマさん(34)。この学校は1980年代に建てられ、5人の教員と2人の事務員がいたという。職員室の建物は何とか残ったが、教室の壁は崩れ、屋根がすべて落ちてしまったチョークで字の書かれた黒板や散乱した机や椅子が地震前の子供たちの学んでいた風景を想像させる。まだ学校の再建の話はないが、ほんの数時間前に教育局の人が被害調査に来たそうだ。
ムジマさんは、学校の先生であると同時に妻であり、母でもある。そしてひとりの被災者である。ムジマさんが生まれる前に建てられたという自宅は、全壊してガレキの山と化していた。旦那さんの商売道具であるナタデココ(一時期日本にも輸出していたそうだ。)を作るプラスティックトレーをガレキの中から取り出してあった。
ムジマさんは、先生らしく、とてもおだやかな方で、突然来た外国人に救援物資の水を差し出してくれ、僕たちの質問にひとつひとつ丁寧に答えてくれた。そして最後に言った言葉が心に残った。「今は、自分の事で精一杯なんです。。」
ジャワ島中部地震ニュース 第29報
つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.12
最大の被災地、バントゥル県にイモギリという地区がある。中心部を通る幹線道路から少し入ったジャヤン村を訪ねた。外からはよく見えなかったが、集落の中に入って初めて被害のすごさに驚いた。多くの村は、このように屋敷林と呼ばれるヤシやバナナ、マンゴーなどの生活に有用な木々を家の周りに植えている。その為に外部からは村の全容が見えにくい。
【写真】ジャヤン村の隣組長のカミジョーさん |
このジャヤン村の第1RT(57世帯、250人)長であるカミジョーさん(55)は、ベチャと呼ばれる輪タクの運転手で17キロ先のジョクジャカルタの町まで自転車を走らせるそうだ。この日、カミジョーさんは見る影もない自宅のガレキの片付けに追われていた。「毎日、ガレキの片付けで夜は疲れてよく眠れるよ」と気丈な言葉を口にしていた。今はガレキの中から引っ張り出した資材で建てた掘っ立て小屋で6人の家族と親戚の2家族と共に暮らしている。また、このRT内では、4人の方が亡くなっているそうだ。「子供たちが余震で怖がってね。。。」とぽつり。。。
ほとんどの被災者の人々は、今なおガレキの中で余震に怯えながら暮らしている。その事を忘れないで伝え続けていく事もひとつの支援なのかも知れない。。。
ジャワ島中部地震ニュース 第28報
つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.11
被災地バントゥル県は農村部で貧しいと言われる。が、実はもっとも貧しいのは、その東部のグヌンキドゥル県である。山岳部で土地がやせているのが、その所以だ。
バントゥル県からグヌンキドゥル県に入ると道は徐々に上り始める。木々の間を数十分走ったPATUKの町周辺は、断層に近いせいか、倒壊家屋が多い。
【写真】グヌンクドゥルの山間部 |
県庁所在地であるウォノサリ市の保健局で働うく日本人の女性にお話を聞いた。地震の当日、たまたま旅行に出かけていた彼女は、1週間後にようやく戻って来たという。戻って来た頃には、職場の人々は疲れ果ててしまっていて、今、彼女は思うように動けないという。これから被災地を回ろうとする僕たちに同行しようとしたが、上司から「何かあったらどうするんだ」と反対され、断念せざるを得なかった その後、石灰岩のゴツゴツした岩肌の間を走っていると両脇に広がるキャッサバの畑が目につく。土の中から掘り出したであろう石を使って斜面に石垣を作り、やせた土地でも育つキャッサバを栽培していた。この事か。。
県内を一周するようにバントゥル県の断層のラインに近づくと再び被害がひどくなってくる。
PANGGANG郡では、2人が亡くなっている。役場前にはやはりPOSKOが設けられ、数人の職員とまだ若い学生らしき人がいた。声をかけてみるとやはりボランティアで、ジョクジャカルタ市内の大学から15人ほどで地震の翌日にここに入ってずっと活動しているそうだ。話を聞いた彼はあのスマトラ出身の学生だった。ともすれば取り残されそうなこの辺鄙な山間部にも学生ボランティアがいた。。。
ジャワ島中部地震ニュース第 27 報
つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.10
インドネシアには今なお、王制が残る。その王様であるスルタンは、被災地のジョクジャカルタ特別州の州知事でもある。地震後、スルタンは被災地を回り、人々をはげましているようだ。そして地震後すぐにこのような事も言ったそうだ。「政府がお金を出して、住宅再建をすべてやる。その住宅は倒壊を免れた家屋よりもいいものは作らない。」、「雇用をつくるために地元の大工を使って建設する。」、「地域にある助け合いのシステム、ゴトンロヨンを有効的に使う。」と。これが、そのまま実現されれば、とてもすばらしい事である。
【写真】役場の前に積まれた救援物資のお米 |
そして中央政府の副大統領も「食費(一人当たり)1日3000RP(約40円)、米10kg、被服費10万RP、支援金(月)10万RPを全被災者に支給する」と発表した。
が、しかし。。先週、いざ支給の段階になって政府は、「支給は全壊家屋の被災者のみ」と方針を変更した。それを知った多くの被災者から不満の声が上がっている。また、それを聞いて家屋を新たに壊している半壊家屋の被災者も出てきているという。
政府は、まず被災者に対してこれからの再建の道筋を示してあげるべきなのではないか。。まずは、「安心感」を与えてあげるべきではないか。。。尊敬の念を集めるスルタンこそがそれをできるのではないだろうか。。
ジャワ島中部地震ニュース第 26 報
つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.9
ジョクジャカルタは、4つの国立大学と64の私立、専門の大学があるという学生の街だ。今回、注目すべきは、ガジャマダ大学(UGAM)の学生ボランティアたちだ。震災後、たったの6人で始めたボランティアが、今や4000人という規模になっている。大学のPOSKOに集められた物資を手分けして被災地に運んだり、集落で地域住民と共に被害状況を調査したり、教育学部の学生達は、子供たちのトラウマケアを積極的に行っている。
【写真】(上)子供たちのトラウマケアをする学生ボランティア/(下)被災者の男の子と遊ぶボランティア、Dさん |
また、その他の大学も小規模ながら地道にボランティア活動を行っている。同じく市内にあるKERJA SAMA大学では、4階建ての校舎の1階が潰れた。その潰れた校舎の前でささやかなテントでPOSKOを作り、物資を配っている20人くらいの登山サークルのボランティアたちの事も忘れてはならない。
そして京都に住む日本人大学生O君(24)はこの3月までジョクジャカルタに留学をしていた。住み慣れた街の惨状に自分も何かと思い、今回同行してもらい、現地案内、通訳などの協力をしてもらう事になった。また彼の友達であるDさん(22)もボランティアとして毎日朝から晩までずっと同行してくれ、今もなお現地で様々な情報を調査して送ってくれている。毎日被災地へと車を走らせてくれたドライバーのA君(22)も同じく学生である。
今回のこの学生ボランティアの動きは、11年前の阪神大震災に全国から駆けつけたのべ130万人のボランティアを彷彿とさせる。まさしくインドネシアのボランティア元年だ。彼ら自身が自分達の国、地域を何とかしようという心意気のようなものを感じる。日本の被災地から、そして日本のボランティアからメッセージを送りたい。若い力を応援する事もひとつの支援であるように思う。。。
【報告会のお知らせ】
日時/7月2日(日)午後4時~
場所/土生神社社務所(岸和田市土生町1114番地・JR阪和線東岸和田駅より徒歩10分)
報告者/吉椿雅道(海外災害援助市民センターCODE臨時スタッフ)
参加費/カンパ制
問い合わせ/電話072ー426ー7287(土生神社・阪井健二まで)
協力/小さな友の会
ジャワ島中部地震ニュース 第25報
つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.8
【写真】瓦礫の街と化したバウラン村 |
【写真】多くの人は、今もなおガレキの中の小屋で暮らす |
バントゥル県のバウラン村のRT(隣組)長であるスーダルモンさん(53)は、他になり手がいなくて第4RT(33世帯)の長を1987年からずっと務めている。やはり政府からの方針はまだ何も聞いてないという。村の再建の事も今は何も考えられないと。スーダルモンさんの個人的な事はあまり聞かなかったが、RT長としての重荷なのか、自分自身被災したという悲しみからか、肩を落として元気がなく見えた。「夜になると悲しくなって眠れなくなる。。」「食べ物があれば食べるし、なければ我慢するだけだ。」と。「ただ今は自分の健康の事だけを考えている。」という言葉を何度か耳にした。やはり中高年の男性の事が心配される。すでにある村では自殺もあったという。
1週間後の被災地では食料やテントなどの物資がようやく落ち着きつつあるが、これからどうやって住宅を再建するのか、どうやって仕事を取り戻すのか、それには長い長い時間がかかる。だからこそ今、被災者の彼らにどういう「安心感」を与える事ができるのかを考えなくてはならない。。。
最後に、スーダルモンさんは、つい先日まで村の若者たちがやっていた路上での募金活動について「本当はお金がほしいが、自分たちから求めるものではない。相手から与えられれば頂くが。。」と言って若者の募金活動を止めさ
せたそうだ。つらそうなその表情の中にも清貧の誇りを感じた。。
ジャワ島中部地震ニュース 第24報
つぶやきレポート「インドネシア被災地の今」 Scene.7
【写真】全壊家屋の多いバウラン村 |
【写真】ガレキの片づけを行う村人 |
村の8割以上が全壊したバウラン村のUTOMOさんに案内してもらった。村は1950年代に建てたが、補修していない家が多かったという。しかもこれまでに小さな地震が何度もあっていたにもかかわらず。。。
ガレキの隙間に孫らしき男の子と座っているお母さん(56)に声をかけてみた。9人家族のうち、実のお兄さんは壁の下敷きになって亡くなったそうだ。地震直後は津波が来るという噂で向こうに見える小高い丘の方に逃げたという。娘さんは、地震の7日前に生まれた赤ちゃんを連れて今でも避難しているそうだ。「家族を亡くして精神的に辛いから何もやる気がしないよ。」というお母さんの向こうにガレキ山となった自宅が見えた。
別れ際、「あんたは日本人かい?」と聞かれて、そうだと答えると「この村には、ニッポンという名の人がいるんだよ。」と返ってきた。こんな所にも日本との歴史があった。