聴講後の考察(CODE業務スタッフ 尾澤良平)
今回の報告会はCODE版寺子屋としての小規模なものでありましたが、実際に現地に調査訪問された神戸学院大学の浅野教授と4回生の高橋さんが、わかりやすくプロジェクトの内容を伝えて下さったと思っています。詳細についてはここでは触れませんが簡略的にいいます。
ジャワ島中部地震の被災地においては水の確保という懸念が常々あり、その潜在的な地域の脆弱性が震災をきっかけに顕在化していました。そのような情況の中で、被災地住民は水の確保に関する支援をCODEに申し出、CODEはこれに応えることを決めました。
プロジェクトの流れは、
・まずCODEの資金援助を基に住民の手により水道管を敷設し、そして水道組合を作ります。
・その組合が、安価な水を得られたことによって発生する余剰金の一部をマネージメントしていき、その利益を配当していきます。
このように一つのマイクロクレジットの形を呈するような復興支援プロジェクトです。
私自身は一応事務局・実施側の立場でありますから、プロジェクトの内容については大方理解しているわけです。しかし、失礼ながら意外にも、今回の報告会では新しい発見や視点を見つけることができました。現地に足を踏み入れた方の感覚、アカデミックな視点、若い学生のセンス、これらの要素を含んだ上でのプロジェクトの計画、実行、フィードバックが非常に大切であると痛感しました。
具体的には、浅野先生がおっしゃった、
・「防災マネージメントサイクルの観点」や、
・「サスティナブルな社会を目指していく1つのモデルになりはしないか、というこれからの前向きな展望」
です。
浅野先生が強調している言葉の一つにSeamless Assistanceというものがありました。つまり継ぎ目の無い支援、継続的な支援ということです。減災や防災を考えた時に、災害発生前や発生後の~日後、~年後と多層なレベルにおいてやるべきことがあるわけです。しかし、それらの層には、実質的には層といわれるような区切りがあるべきではなく、緊急から復興・復旧ステージまで幅広い視野を持って対応していく必要があります。水道プロジェクトは単なるインフラ支援ではありません。そこから得られる利益をどのように運用し再分配していくか。復興に関わるものは皆そうでしょうが、プロジェクトに対する姿勢には本当に根気強いものが求められます。その上でこのモデルがひとつの復興支援の体系的な評価を持つことができれば、さらに他地域にも広げることができます。もうひとつの社会の生成といったところでしょうか。援助対象地域において防災を考えたとき、水の確保というものは欠くことができません。防災マネージメントサイクルの中で水道プロジェクトはどのように位置づけられるのか、どこまで継続したマネージメントを実行することができるか。この点について浅野先生はとても大きな期待をしておられました。
もうひとつ強調されていたことはサスティナビリティ、つまり持続可能な社会、循環型社会を目指して、ということです。今回のプロジェクトは安全な水の確保が中軸となったものです。水道敷設支援となるとインフラ強化、開発に特化しているイメージを持つことも多いと思います。実際、防災と開発に明確なラインを引くことは極めて難しいです。しかし、先生はこのプロジェクトにはサスティナビリティを追求していけるような可能性があることを理由に、単に防災や開発の枠組みに縛られるのではなく、さまざまな分野を横断的に捉え、水を中心に考えた新しい環境モデルができることも示唆していました。ナマズの養殖やアヒルの飼育を始めたり、循環型営農に力を入れたりと、明からに村には変化が訪れています。お二人の話は、家畜の糞をナマズの餌に使うようになったことなど、かなり具体的なところまで行きわたっていました。
もちろん、水道を敷設しただけで、自然に情況が良くなっていくわけではありません。このプロジェクトは仮にもまだスタート地点であり、ひとつのモデルであるわけです。CODEとしてはもう一歩踏み込んで、農業を中心とした水の供給源を得る必要があると考えています。しかもそれは、今回の報告会でもあったように、自然との共生のなかで見つけていく必要があると思います。そして自立した農業生産、自立した水資源の確保のためには、地域のコミュニティ力が何よりも大切であることは、本プロジェクトの現地カウンターパートであるエコプロワット教授も強く述べているところです。よって、今回の支援対象地域には長期的な視点を持って臨み、コミュニティ自立復興モデルとして活動を進めていく必要があると思います。
ところで、今回の報告のほとんどは神戸学院大学の学生が行ってくれました。形式的なプロジェクトの内容はともかく、具体的な現地の生の情況はやはり学生の感覚を持って伝えてくれたほうがわかりやすいと思いました。ナマズの養殖ってどんなものであるか、どんなナマズなのか、現地の人は何を食べているのか、村の雰囲気はどのような感じか、このような言葉では伝えにくい、しかし重要な判断材料になるリアルな情況をわかりやすく伝えてくれました。これも1つ、学生が現地にいって調査するに当たっての大きな利点であるなと、話を聞きながら考えたりもしていました。
本来であればプロジェクトの報告会やモニターなどはCODE自らが行うべきなのでしょうが、浅野先生や学生がフォローアップして下さるということは、本当に感謝すべきことです。このようなネットワークを最大限生かし、これから事務局側としてもプロジェクトの進行により力を入れていきたいと、改めて感じた次第です。
以上
ジャワ中部地震から6か月 (No 14)
CODE川での忘れることのできないこと!
このレポートNo.8で紹介した”CODE川(チョデ川)”のバンブーハウス群は、今も日々変化を遂げている。わずか数時間の訪問だったが、私たち日本人にとっては忘れられないできごとに出会った。迷路のような川沿いの集落を歩いていると、真っ黒に日焼けした老人が、畳2枚くらいの広さのバンブーハウスでマッサージをしていた。そのお爺さんは私たちを見ると日本人とわかったのか、「こんにちは!」と大きな声で声をかけられた。「えっ!」と一瞬立ち止まり、家の中を覗き込むようにその老人と話しはじめた。彼は日本軍との戦争で「衛生兵」として日本軍で働いていたそうだ。しばらくすると彼はゆっくりと「君が代」を歌い出した。特に災害援助で、アジアの国に来て最も考えさせられるのは日本軍がもたらした「戦争」だ。何も語ることは要らない!なんら解説も要らない!この老人が朗々と歌う「君が代」がすべてを語っている。日本とインドネシアは、切っても切れない関係があるのだ。
一方、皮肉なことに、日本とインドネシアはアジアでも有数の地震国でもある。もっと昔の1万年もまえに遡ると、同じ先祖であるという説もあるのだが、それはさておき、阪神・淡路大震災という大地震を経験したKOBEの市民として、お互い減災社会を目指して、国境を越えての民際交流を永続的なものにして行きたい。「災害」には、戦争もあることを肝に銘じながら。(完)
ジャワ中部地震から6か月 (No 13)
公園の次には、何が?
セウォン集落では、公園の次に何を創るだろうか?CODEが住宅再建を支援したボトクンチェン集落では、課題として震災前まで機能していた「川魚の養殖池」の再建が残っている。でも、今はやっと住まいが確保できたばかりで「一休みだ!」と笑いながらソギマンさんが言っていた。そうだ!市街地構想に急いで必要なのは、「しごと」につながる「場と機会」だろう。しかし、しごとは「仮」という訳には行かない。稼ぐ手段ができれば、当面の暮らしは成り立つが一工夫がいる。もちろん、今回の被災地の主産業は農業であり、農業を再開することで一定の稼ぎは確保できる。でも、もし「住まい」の見直しが起こり、地域で竹やヤシを育てようとなるとどうなるだろう。新たな視点での「建築資材業」が生まれるかもしれない。また、こちらでは川魚の”なまず”が食卓に並ぶ。川魚の養殖を通して、「水」という問題とも向き合わなければならない。
女性たちは、丁度先日ノーベル平和賞をもらった”グラミン銀行”のしくみとなっている「小口融資」を再開したようだ。いろいろな工夫がされ、こうして地域の経済が活発になれば、とにかく元気になれる。災害からの再建を考えるとき、あらためて「何のための場と機会なのか?」が大切なことだと痛感する。
*昨日の朝日新聞に(CODEも支援している)エコプロワットさんの取り組む住宅再建が紹介されました。
ジャワ中部地震から6か月 (No 12)
「超・ミニ時限的市街地」がバンドン村に!
「時限的市街地構想」というのは、東京都が阪神・淡路大震災の教訓から、来るべき東京直下型地震に備えて復興マニュアルに位置づけた構想のこと。東京に大地震が来たら、全壊・半壊家屋が大量にでるが、仮設住宅を建てるにも土地がないという厳しい現実がある。また、帰宅難民となる人たちが、一時関東エリアで約600万人も滞留すると言われている。また、高層マンションも林立している等難しい問題が山積しているが、とにかく大災害に遭えば、その場でまず「仮の住まい」を確保しなければならない。その上で、元の地域がとりあえず災害前に復旧するまでには、同じく壊れているだろう学校・コミュニティセンター・商店街・公園・郵便局・警察・病院などいわゆる公共的施設も、仮に建設されなければならない。つまり時限的にでも「仮設市街地」のデザインを描かなければ「暮らし」はスタートできないということだ。そのために東京都では復興協議会が設置されることになっている。この市街地の超ミニ版となると、○○区○○町○○丁目ほどの規模となるわけだ。
以前、「成長する家」で紹介したバンドン村セウォン集落では、「超ミニ時限的市街地構想」が始まっている。ここでは自治組織の最小単位である「RT=エルテー」があり、RTが3、4つ集まって(日本でいうと中学校区くらいの単位になる)、ここに公共施設として「公園」が欲しいとなった。住民は村長に相談し、「公園が欲しい!」と嘆願する。公園のために一時土地を貸そうという個人篤志家もいたのだが、この集落では結局、村所有の土地を譲り受けることになった。今、青年団の指導のもと、中・高・大学生等の手によって、セウォンの手作り公園が造られようとしている。こうして個人の住まいを確保した次のステップでは、地域とのつながりを豊にするための、「機会」や「場」として公園が活躍しようとしている。この公園に今、若者が集まり「竹製のあずま家」を造っている。災害後の地域コミュニティづくりの核になるだろうと期待できる。ところで「完成したらそのあずま家は何に使われるの?」と聞いたら、「電気代徴収のための窓口になる。」というのである。たかが公園だが、果たして一体どのようなコミュニティ再建の機会として、また場として完成していくのだろうか?興味津々である。
ジャワ中部地震から6か月 (No 11)
人間様より、牛や山羊が大切なのかなぁ?
同じこの集落で、山羊小屋を半分借りて住んでいる老夫婦に出会った。この世帯は老夫婦と息子さん達4世帯と暮らしているのだが、政府の補助が決定し、今新築を建設中だ。おばあちゃんは「新築が完成しても、この山羊小屋は涼しいから、当分ここに住むよ」と笑っていた。「地震でも壊れなかった」とおじいちゃんも笑っていた。よく見ると山羊小屋といえども結構太い木材を使っており、屋根はサトウキビと、超軽量素材なので「なるほど!」と納得。そういえば、何処の村を見ていても、牛小屋や山羊小屋が壊れたという話は聞かない。この地域に住む人たちにとっては、牛・山羊・鶏なども貴重な家族の一員であり、財産でもある。例えば牛1頭を育てるのに相当な苦労もされてきているだろう。その貴重な”家族”を地震がごときで、手放したり、殺したり、傷つけたりできないのだ。
ふと、「あの地震の時、牛はどうなっていたんだろう?泣きわめいて、暴れ廻ったのだろうか?」と気になった。もし地震で暴れて牛小屋が壊れるようなことがあれば、大変なことになることは容易に想像がつく。そういう意味からもこうした家畜小屋は頑丈に造られているのだと納得する。「曲がり家」というように、昔は日本でも馬小屋や牛小屋の上に人が住んでいたり、隣に住んでいたりしていたようだ。ほんとに「暮らし」というのは、人間だけで考えてはいけないんだと教えられる。昔の農耕の姿を思い出すと、牛や馬、あるいは豚や鶏などそれぞれに役割があった。そういえば最近よく江戸時代に暮らし向きが話題になるが、そういう昔に戻ろうということではなく、少しは立ち止まって今のライフスタイルと向き合う必要はあるかなぁ?
ジャワ中部地震から6か月 (No 10)
「暮らし再建」ってこういうことだ!(昨日のレポートの続き)
この家族は両親と長男、娘夫婦と娘さんが同居する予定。政府の援助が決まり、父親を中心に長男・娘夫婦・娘と家族総出で新しい鉄筋使用のレンガ造りの家を建てている。幸いこの家族には直接の犠牲者はいなかった。お母さんは一人で台所を守っている。この家族の敷地は、震災で全壊となったことをきっかけに、震災前の隣屋と土地の移動を合意した。詳しくはこうだ。もともと建っていた敷地は隣屋に譲り、もとの敷地のとなりにテントの台所と、さらにその隣に竹を素材にした「仮の家」を建て、さらにその隣に「T」の字につながるように、新築を建設中だ。おそらく全体が見えるような高いところから見ると、壊れた更地→テントの台所→仮のバンブーハウス→鉄筋使用のレンガ住宅と、絵に描いたような「成長する家」のモデルだということが一目瞭然となる。
でも、ここのお父さんは別に「成長する家」という意識はない。非常にシャイなこのお父さんは、今は現役を引退しているが、元大工さん。道理で手際よく作業が進んでいると思ったのだが、実はこの新築が完成してもお父さんは「死ぬまでバンブーハウスで暮らす。」と言い切る。新築は4部屋しかないため、子どもたちに遠慮しているようにも見受けるのだが、実は地震で壊れたときから、お父さんの頭の中では、毎日、家の再建プランを書いては消し、書いては消しの繰り返しであったようだ。こうして新築を巡って家族のそれぞれが思惑?を持ち計画を練っているようだ。災難にあったものの、自分の新しい暮らしが再建できると思うと、シャイなお父さんが時折笑う表情がなんとも微笑ましい。震災以来、テント仕立ての台所で寝ていたお母さんもバンブーハウスに移るのだろうか?
ところで、どこの被災地をまわっていても共通する光景を目にする。それは、牛小屋や山羊小屋が壊れていないということだ。「なんでやろ?」
ジャワ中部地震から6か月 (No 9)
「成長する家」??
すでにCODEのHPでも紹介された「成長する家」のその後についてレポートする。そもそも”成長する家”というのは、私たちがジャワに行ったときにいつも通訳でお世話になる笠原さんという関東出身の方が住んでおられる村で生まれた言葉だ。笠原さんは、こちらで結婚され定住?されているのだが、地震後この集落(バントゥール県バンドン村セウォン集落)で被災した家の補修や再建支援に奔走していた。はじめてジャワに来て、私がこの集落を笠原さんに案内して貰ったときに、彼女たちが支援している家の建設過程を見ていて、「仮設住宅といっても、使えるものは使うというリユースで再建しているようです、耐震の工夫も随所に見受けられ、まるで本設のようですよね!」と感想を漏らした。それに対して、集落の村長の奥さんが「ここに建てられているのは仮設住宅じゃないよ。成長する家だよ!」と言われたのが「成長する家」の始まりである。
この家が再建されるまでは、それぞれ敷地内でテント生活をしていた。そして仮に竹や古い材木、レンガなどを使用してテントのほかに「仮の家」を建てたのである。やがて政府の援助も決まり、いよいよ本設の家の建設も増えており、こうして一軒の世帯全体を眺めていると、まさに「成長する家」が並んでいる。以前、尼崎園田苑の中村大蔵さんが「住まいに仮はあっても、暮らしに仮はない」とおっしゃったが、ここの住民にとっては、まったくその通りで、それを「成長する家」と表現されたのである。
このように表現されると、本当に「暮らし」を創造していくという感じで、実に楽しそうである。災害で怖い思いを経験されたけれど、やがてお金では買えない「幸せな暮らし」という財産を一日一日手に入れているようだった。そんな中で今、せっせと新築を建設している家族に出会った。この家のこれまでの経緯を聞いていると、まさに「成長する家」そのものだが、詳しいことは、また明日・・・。
ジャワ中部地震から6か月 (No 8)
エコ・プロジェクトは永遠に続く
みなさまのご支援で終えたボトクンチェン集落の住宅建設は一応終了した。被災者は口を揃えて「やっと家が完成した。嬉しい!」と喜んで下さった。村のみなさんにとっては「住まい」は確保したけれど、これから「暮らし」を創って行かなければならない。エコさんやこの集落のRT長ソギマンさんと話したのは、「最近はゴトンロヨンもだんだん薄くなってきている。これからはコミュニティの力をもっともっと強くしなければならない。」ということだった。エコさんは「暮らしを築いていく中で、よりコミュニティが強くなる。そして経済の外圧に負けることなく、地域経済の自立を目指さなければならない」と熱く語っていた。「そうなんだ!阪神・淡路大震災から12年が経ったが、私たちもエコさんのような視点でこの被災地とこれからも向き合わなければならないんだ!」と意を強くし、大きな学びを得たような気がする。やはりエコさんは、師匠ロモ・マングンさんが歩んだCODE川のスラム再建と同じ道筋を歩もうとしているのだ。被災地ジャワで、エコ・プロジェクトが永遠に続くことを願いながら、また再開することを期待したい。
(CODE川:ジョグジャカルタ市内を流れる川。下流の一部に貧しい人達が住みつき、不法滞在として歳々、政府と衝突をしていた。1980年代に、ここにロモ・マングンさんが入り、竹をヤシの木などを使用した家を建て、住民も同じように竹の家を建てるようになった。家の壁面に、淡いピンクやブルー、グリーンなどの色を塗り、スラム化していたのが目を見張るほどに変わってしまった。やがて住民の運動によって隣接するRTが、正式にRTとして認めてくれ自立するようになった。ロモ・マングンさんは亡くなり、没後「バンブーハウス」という本が出版され、多くのジョグジャカルタ市民に愛されるようになった。約20年が経った今も、日々変化を遂げている)
ジャワ中部地震から6か月 (No 7)
家は壊れるもの!?
「レポートNo.6」で「ジャワ伝統の家は壊れていない!」といいながら、ここで「家は壊れるもの!?」というのは誤解を受けるだろうか。しかし、こう言わざるを得ないのは以下の理由があるからだ。
残念ながら阪神・淡路大震災でも、ジャワでも証明済みのことだが、地震で多くの方が亡くなる要因は、倒壊家屋にあることはいうまでもない。12年前に6,434名以上を亡くした私たちは、あれ以来国内外に向けて「耐震」を訴え続けている。しかし、先述した鈴木先生が書かれた資料を読み、またその論に基づいて現場を見ていると、建築家でもない素人の私がいうのは憚れるが、「家は壊れるもんだ!」という捉え方をする方が減災につながるのではないかと思うようになってきたからである。1999年の台湾地震の被災地でも、その論を裏付けるような建物に出会った。その家は140年前から建っており、この地震で大きな被害はなかった。釘を1本も使わない日本の在来工法とよく似た造りだった。大きく損傷したところは1ヶ所で、それは裏の土壁だった。鈴木先生の説明によると、「この壁が一手に地震のエネルギーを吸収し、この壁が壊れることで他の大きな損傷を免れたのでしょう」とおっしゃった。
すでに紹介した「関善」やニアスの楕円形樽型住居も同じだが、大屋根を支えているのは架構式の軸組構造であり、地震の揺れによって一部分の横桟がはずれても、他で支えているから大きくは壊れないようだ。ニアスで見た架構式の一部が真新しく入れ替えられているのはそういうことだったんだ。そういえば、ヨーロッパの住居は、日頃からマメに手入れをするから100年以上も維持できるそうだ。日本の在来工法による木造住宅も、日頃から手入れをし、古くった部分などを取り替えておれば、「壊れても大丈夫!」となるのかも知れない。しかも地域で育った材料を使っているとますます安心感が伴う。
来年から国土交通省は、「川は溢れるものだ!」という前提で防災計画を見直すそうだ。きっと住宅も同じだろう。建築基準に満たされた鉄筋とコンクリート使用であっても、絶対壊れないと云う保障はない。強固につくれば、つくるほど、もし壊れたときは被害が大きくなる。その時に「想定以上の地震だった。」では納得できないだろう。だから「家は壊れるものだ!」と向き合う方が結局減災につながるのではないだろうか。
ジャワ中部地震から6か月 (No 6)
ジャワ伝統の家は壊れていない!
ジョグジャカルタには有名なヒンズー教寺院「ブランバナン」がある。震災後まだ十分な修復ができていないため、中に入ることができない。その近くに、ブランバナンより小規模のヒンズー寺院「プラオサン」があり、すぐその前の集落がこの地震でかなりの被害を受けていた。9割近くが壊れている状態だが、その中でほんの少し損傷した程度の家がポツンと1軒だけ建っている。その家は、伝統的なジャワ建築である。持ち主に鍵を開けて貰って家の中も見せていただいた。この家の基礎には、大きめのブロックや石垣に使うような石や煉瓦などが使用されており、大屋根を支える基本の柱はクリ石のような礎石の上に乗っている。駆対となる垂直の柱とそれらをつなぐ横桟は、ほぞを掘って差し込んだり、くさびを差し込んだり、釘を使わない組み方である。このような姿を見ていると、ほんとに日本の伝統的な在来工法による木造住宅を思い出す。材料は全てが竹と木材である。
前回、「地域の資源で家をつくれば、地域の財産だ。」と言った。もし、家に使用することを前提として木材や竹やヤシの木を、丹誠込めて育てればどういう感情になるだろうか?新潟中越の豪雪の中で育った木材だから、信頼でき、安心して住むことができるのと同様、やはり安心できるのではないだろうか?「信頼」と「安心」を裏付けるものは、自分たちが住む地域であり、地域を育てる人の顔がはっきりと見えるからだろう。お金さえあれば、良質で大量生産も可能な鉄筋やセメントでは「顔は見えない」ということに気づく。「揺れても怖くない!」とはそういうことだったのか。