イタリア中部地震支援ニュース9

 尾澤は今日1日の夕方帰国しますので、いよいよこれが現地からのレポートの最後になります。(被災地に入る)最終日は、歴史あるカステッロ(ラクイラから30分くらいのところ)を訪ね、和風ピエロを少しやらせて貰ったようです。
以下、少し長いですが尾澤からのレポートを掲載します。
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 この日は午前にIVALSAの件でバタバタとし、午後に通訳さんと共に奥地の歴史あるカステッロ(意味は城・単位的には村レベル)を訪れ、突撃ジャパニーズクラウン(和風ピエロのこと)をしてきました。このカステッロの名前はカラショ。ラクイラから30分くらい車で走ったところにある小さな村。といってもお城付の歴史あるところ。言い伝えではこのようなカスッテロが99集まって、合同で街をつくったのがラクイラらしい。この辺り一帯のカスッテロは、1254年に皇帝フリードリヒ2世の都市建設資格免許状を受けて、力を合わせて堅固な都市建設の夢を実現すべく、同盟を結ぶ形でラクイラを創設した。とにかくラクイラより周りのカスッテロの街を訪れた方が歴史的な建築が圧倒的に多く、興味深いということです。ラクイラは13世紀ころの建築が最古ですが、周りは古代ローマ時代の遺跡から、ラクイラ史以前から残る中世の建築が残っているのです。
 さて、カラショの避難所、15くらいのテントに入っていくと、そこには子供は一人しかいません。急な訪問に少し驚いている様子だったが、クラウンだとわかるとその子供は無邪気に遊びだした。まけないぞうのプレゼントを渡した。周りの大人たちは冷ややかな目でみたり、恥ずかしがったり、こっちのノリに乗ってきたりとさまざま。このあたりの反応は日本人と似ています。とにかく子供と少しでも触れ合えてよかった。個人的にはジャパニーズクラウンのウケはもっとあるのかな、と思ったが、やはり先進国ということもありアジアも含めて移民の多い国、そこまで異文化で珍しいものが来た!という反応はありません。でも子供は別。ドラゴンボールのモノマネやサムライの身振りなどをすると、大変よろこぶ。イタリアクラウンも基本的には子供を相手にすることが多いです。
そして27日から正式にボランティアとして入っているコピート村の避難所へ。ここには50弱のテントに食堂テント、こどもの遊技場テント、交流テントなどがあった。どの避難所もこのような構成をしている。ジャパニーズクラウンはまず、思春期の子どもたちを即興劇に参加するように促してくれ、と命じられた。といってもイタリアクラウンについていくだけ。イタリアクラウンは思春期の子どもたちには少々手を焼いている様子。これは日本でも想像できますね。「劇!?、やってられっかよ。」という反応をするのです。でも基本的に明るい性格ですからイタリアクラウンがマジックをしたり、風船遊びをすると、ちゃんと楽しみます。この辺りは日本とちがうかもですね。 私も一緒に楽しんでしまいました。イタリア語がわからないのが功を奏してなのか、思春期の彼らの気持ちを少しは掴めたかもしれません。
「私が手に負えなかった彼らを、ジェスチャーなどを利用して交流できているのはいいですよ」と褒めてくれた。それを聞いてとてもうれしかったです。思春期の彼らからすると、おどけたクラウンはどうせ演技でしょ、という感じでぶっきらぼうな態度を取るのですが、私はイタリア語が話せないのである意味でこちらが低い立場になることで、こどもの相手ができたということかもしれません。私は終始ニヤニヤしたり、相手のモノマネをしたりしただけですが、通訳と共に、被災者の方、クラウンの仲間と少しながらも良い関係ができたと思っています。
被災地に入るのが最終日なので、これまで訪れた場所に再び足を運びました。まずは毎日ガソリンを入れに行ったスタンドのおじさんのところへ。電話やガスがないから大変なこともあるけど、特に不自由なく暮らしているよと、前向きだった。
そして最初にお世話になったロシア人のいる避難所へ。先述したように、ここは教会が完全に壊されたので、食堂の横に簡易教会がある。ここでSさんから頂いた日本風で着物を着たマリア像を描いた置物をプレゼントすると、びっくりするくらい喜んでいました。十字架の前において写真を撮ったり、周りに自慢したりと。ぜひこれからも交流しよう、ということでキープインタッチをすることを誓いました。それからまもなくロシア人の友達(?)も来て、自分の家の被災状況を見せてくれました。今は週に2日はホテルで5日はテント。ホテル代は支給されているとのことです。そういえば映画「明日、陽はふたたび」でもホテルが避難所になってました。日本ではこのような考えはあるのでしょうか。気になります。 さて20年前の5階建てのこの賃貸マンションは見る限りしっかりたっているのですが、ところどころ小さなひびが入っており、一番下の階は比較的大きなひびがありました。地震発生時には混乱してすぐにベランダに出たそうです。イタリアには避難訓練のようなものは少なく、学校で1回ある程度だ、といってました。この中で寝るということはもちろんなく、余震があってからもひびは増えているらしいです。
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次は帰国後続きがあるようですのでお楽しみに!