現在学校が夏休みに入っているので、AHKKセンターには多くの子どもたちが参加し、サイード先生たちはとても忙しくしているそうです。
サイード先生の生徒で、見習いの音楽教師であるポールサレヒさん(Mr. Pursalehi)が、実習で週に1回音楽教室を担当しています。サイード先生はこれまで通り、子どもための音楽教室を週2回、音楽教師のための養成教室を週1回、運営しています。(上写真:ポールサレヒさんが教えている様子)
サイード先生は多くの子どもたちが来るので、とても忙しくしていますが、毎日充実した日々を過ごしています。(下写真:中庭のあずまやの下でくつろぐ子どもたち)
これは、日本のみなさんへサイード先生からのメッセージです。
Wish to have more pleasure in supporting more people in cooperation with each other.
(お互いに助け合いながら、より多くの人々をサポートする喜びを共有しましょう!)
女性委員会によるプログラム
体育館の活用
CODEの支援で昨年建設されたAHKKセンター内の体育館が、さまざまな目的で現在活用されています。昨年の11月に、イランのザランド地震の被災地から来た女性や子どもたちとバムの人々が交流する場所にも使われましたが、現在は人形劇や他のNGOが運営するワークショップなどにも使われています。もちろん参加者はAHKKセンターに来ている人々や地域住民です。(上写真:体育館の様子)
人形劇
昨年12月に音楽コンサートが終わってから、STLというトルコのNGOのから支援を受けて、AHKKセンターの子どもたちは人形劇に取り組みました。まず、人形作りのクラスで、人形や舞台セットを作り、4ヶ月の間、演劇の練習を積み重ねてきました。5月頃から3ヶ月の間は体育館で人形劇の公演の期間です。先日実施した人形劇は、多くの子どもたちが見に来て、とても喜んでくれました。このような子どもたちによる人形劇をこれからも継続していく予定です。
(中写真:舞台裏で人形を操る子どもたち)
ワークショップ
他のNGOがワークショップをする際にも、体育館は使われます。NejatというNGOが主催する災害時の精神的な処置のワークショップや、STLが開催するボランティアのためのワークショップなどにも使われています。(下写真:ワークショップの様子)
子どもたちの音楽コンサート開催
イランの北東部のバムで発生した地震の復興支援において、AHKKセンター(コミュニティーセンター)の運営を行っています。現在AHKKセンターでは、音楽教室、裁縫教室、織物教室、人形劇の教室などが行われています。
(上写真:AHKKセンターの外観)
音楽教室では、サイード先生が子どものための音楽教室と音楽教師のための養成
教室を開いています。昨年12月にテヘランで子どもたちのコンサートが行われました。
コンサートはとても盛況で、チケットはすぐに売り切れ、
500人以上の観客がコンサートに来たそうです。イラン国営テレビはサイードさんたちのインタビューを放映し、新聞にも取り上げられました。コンサートが行われた場所はイランでも大変有名な場所で、ここで子どもたちのコンサートが行われることは大変名誉なことらしく、継続して支援している音楽教室の成果が、バム以外の地域でも認められつつあります。(中・下写真:コンサートの様子)
サイードさんによると、このコンサートをテヘランで開いてよかったことは、地震後2年が経った被災地のバムについて、イランの多くの人々と共有できたことや、バムの子どもたちが、自分たちが住んでいるまちやその地域のお話について、演奏したり歌を歌ったりして表現できたことだそうです。そして何よりも子どもたちや聞きに来ていたテヘランの観客の人々が、音楽コンサートを楽しむことができたことが一番よかったと報告してくれました。
イラン西部ロレスタン州で M6の地震
イラン西部のロレスタン州で31日に発生した地震で、イラン内務省は1日、同州のドルード、ボルジェルド両都市のほか、約330の村落が地震による被害を受け、1万5000世帯が住居を失ったと発表しました。
これをうけ、CODEは現地カウンターパートのバタニさんと連絡をとりました。バタニさんによると、亡くなった方は66名、負傷された方は1400名。小さな余震があり、政府は家から離れるように人々に呼びかけている、ということです。
CODEは2003年12月に南東部ケルマン州バムで発生した大地震に対して、カウンターパートと一緒に現在も支援活動を行なっています。今回の地震のカウンターパートの活動は未定ですが、CODEは現地の方と一緒に、あと押しをする形で支援していきたいと思っております。
イラン・バム地震より2年 パート L
昨年の夏以降にみなさまのご支援のお陰で成立しかけた、バムの地場産業である”レンタル・デーツ農園”支援プログラムがピンチに陥っています。というのは、今年のバムのデーツは全体に売れ行きが悪く、バムのデーツ産業全体がピンチのようです。CODEが支援している”レンタル・デーツ農園”というのは、「そんなおいしい話があるの?」っということから始まった事業です。そもそもデーツの収穫時期になると、デーツ農園のオーナーも忙しくて放置したままになるケースも少なくないという現実があったのです。
そこでAHKKセンターの土地のオーナーが、そのような農園オーナーの一人でもあったことからレンタルの話がでてきたのです。「おいしい話」というのは、レンタル料を払えば、その農園で収穫できるデーツは借り主のものとなり、販売すれば収益になるということなのです。
ところがこの件について、CODE理事会で協議し、かなりスピーディーに借り受けるという結論を出したのですが、タッチの差でこの話は不成立に終わったのです。農園を借り受ける話は、今年に持ち越されているのですが、とりあえず昨年度から今年にかけて収穫したデーツは、仕入れをして大型冷蔵庫に保管しているのですが、先述したように売れ行きが悪いため、新年(3月)になってからの好景気に期待するという状況です。
こうなると結果的には冷蔵庫を買っていてよかったということになりますが、しかし値崩れしないような形で販売できることを祈るしかありません。なんとか売上げを上げて、今年こそは農園ごと借り受ける、という形にしAHKKセンターの運営費やセンターを出入りする人たちのしごとづくりにつながればと願うものです。
さてみなさん!実は当CODEの事務所には庭があり、そこにバムから持って帰って来たデーツが初めての冬を越えようと頑張っています。イランのような暖かいところで育つデーツなので、この神戸の寒さでは冬を越せないだろうと思っていたのですが、以外と強く先日来の雪を被っても、必死で耐えているようなのです。上手くこの冬を越せれば、きっと今年の梅雨どきにはグングンと成長することでしょう。この庭で育つデーツは、実は種からの生育なのです。たわわと実がなり、バム産デーツが私たちの口に入るほどに育つには30年かかるといわれています。
2003年12月26日のイランバム地震という悲しい出会いから”KOBE-バム”という、まさに地に根の生えたしっかりした新たなつながりが生まれようとしています。年明けから、少しでもこの寒さから守ろうと、ダンボール箱でデーツの葉を囲んでいるのですが、ほんとにこのデーツは特別強いように思います。おそらく日本のどこを探しても、他にはないので比べられないのですがね!(笑)
(事務局 村井雅清)
*デーツ:なつめやしの実で、日本の味覚で言うと”干し柿”のさらに甘い味のする果物です。お好み焼きソースの原料にも使われており、実は阪神・淡路大震災で被災を受けたオリバーソースさんでもイラン産のデーツを使っているそうです。
イラン・バム地震より2年 パート K
ほぼ施工業者の怠慢で工事がベタ遅れになっていた体育館が完成して3ヶ月になる。そもそもこの体育館は、いわゆるAHKKがバムで活動する拠点でもあり、地域のコミュニティー再建の拠点でもあることから通称「AHKKセンター」といわれている。
これまでのニュースでも触れましたが、このセンターは空手教室などのスポーツ委員会、女性の自立活動を行う女性委員会、絵画教室などを行う芸術委員会、サィードなどの音楽委員会などとそれらをまとめる全体委員会で構成されている。それぞれは最低一つのコネックス(コンテナ)を確保し、活動の場としている。今後の大きな課題は財政的に自立できるかどうかと、バタニさんに続く強力なリーダーが育つかどうかにかかっている。バタニさんは地震以後テヘランでの本職(農業省職員)を休職し、バムに支援として入っていたがそろそろ復職を迫られている。きっと彼女は今相当悩んでいるだろうと推測する。
その理由の一つに、バムのスタッフやAHKKのスタッフ、そしてバタニさんやサィードたちが今真剣に考えていることは、CODEのイランバージョンをつくろうということらしい。バタニさんの悩みの中には、その新たな活動の牽引者にならざるを得ないという現実との葛藤かも知れない。阪神・淡路大震災がきっかけに生まれたCODEだが、これまでにも活動を通してクワテモック(メキシコ)やSEEDSのマヌ(インド)とCODEの海外研究員が現れてきた。カウンターパートナーの中心がデリンジェ市という行政だったことが原因だろうが、トルコではまだNGOでは該当する人たちが育ちきっていない。
ただ、トルコ地震以後誕生した「愛と望みのテント」を興した子どもたちはまだ、健在のようだ。しかも、KOBEの支援で建設された「市民文化教育センター(通称草地文化センター)」を利用しての活動が行われていると昨年12月のはじめに知人からの情報が入った。スリランカでもやがて生まれるだろう。確実に”支えあいの連鎖”は広がっている。”イラン版CODE”が生まれるのも時間の問題だろう。でも、バム再建の今後を考えると、もうしばらくバタニさんはバムのリーダーとしていて欲しい気がする。
(事務局 村井雅清)
イラン・バム地震より2年 パートJ
関係者のみなさま、支援者のみなさま!久しぶりにイラン・バムの状況をお伝えすることができます。といいますのは、昨年9月からイギリスのノーザンブリア大学に留学している元CODEスタッフの斉藤容子さんが、正月休みを利用してイランを訪問し、バムの様子をレポートしてくれました。あの懐かしい「容子のバム日記」は、彼女がブログをつくって発信していますので、そちらを見て頂くとして、このレポートは斉藤さんがCODEに送ってくれたものをまとめた形になります。イラン・バム地震3年目の「いま」の様子が伺えるかと思いますので、久しぶりの「容子のバム日記」(http://saitobamnikki2005.seesaa.net/ )と併せてご覧下さい。
パート J
(音楽教師養成プロジェクトについて)
昨年1月、神戸にも来ていただいた音楽教師養成講師のサィードは、AHKKのプログラムとして新たに40名の受講生を募集しました。これまで同様、賑やかにリコーダーや木琴などを使っての音楽教室になりますが、楽しみなのはこれまでの受講生の中から一人の先生が幼稚園で教えることになったのです。さてどのような成果が披露できるでしょうか?
ところでバム地震2年目の節目として、イラン国営テレビでAHKKのリーダーであるバタニさんや先のサィードがインタビューされ、その模様が放映されました。さらにビッグニュースは、首都テヘランでも大変有名な場所で子どもたちのコンサートが開かれ、500人以上の観客が集まりました。もちろんあの時以来KOBEで唱われ続けている「しあわせ運べるように」のペルシャ語バージョンも披露されました。
イラン・バム地震が発生したのは、昨年のスマトラ沖地震津波災害が発生した12月26日と全く同じ日であったこともあって、イラン・バム地震から2年目であるということについては、もう日本のマスコミでもほとんど取り扱って頂けませんが、こうして現地ではKOBEとのさまざまな連携のもとで築かれた”絆”を、さらにイランの人たちに広げるように活発な活動が展開されています。
今年の1月、つまり阪神・淡路大震災から10年という節目に、バタニさんもサィード君もこの被災地に来て下さいました。きっと二人は、バムの被災者の一人ひとりの思いを携え、KOBEの地で「痛みの共有」を実感し、また新たな決意の中でバムに戻られ、この1年を過ごしてきたことと思います。もちろん、CODEは今もバムの人たちを支援し続けています。明日は他の活動内容をレポートさせて頂きますが、是非引き続きご支援をお願い申し上げます。
事務局長 村井雅清
第8次イラン南東部バム地震支援 現地レポート最終
8月29日 イラン バム
女性委員会のマネージャーであり、裁縫教室の先生である、ビーガンさん(Ms. Bigan)と話をした。ビーガンさんは1ヶ月くらい前からAHKKのセンターに来て、7人の生徒に裁縫を教えている。地震後は半年間赤新月社で裁縫を教えていたらしい。ビーガンさん自身も地震で頭をけがして、連れ合いの方は地震でトラックがつぶれて仕事を失い、今も無職である。しかし裁縫をしていると、いろいろないやな事をすべて忘れて裁縫に集中することができるらしい。地震を経験し、いまだ厳しい現実に直面している人々が、裁縫教室をとおして、他の人と思いを共有したり、気分転換したりする場になることを願う。
今後AHKKを地元の人たち自身で活動していけるようになってほしいと願っているけれど、何か提案はありませんかとビーガンさんに質問すると、女性の中には3つのタイプがあり、①ただ裁縫を習いたくて教室に来る女性②収入を得るための手段として裁縫技術を身につけたいという女性③裁縫とセンターを運営することに興味を持って参加をしてくれる女性がいる。その中で特に②③の女性たちと活発に話合いながら今後の運営方法を考えていかなければならないということだった。
今日のお昼のクラスは、コンピューター、作文、音楽がある。作文はペルシャ語作文のクラスで、バタニさんが教えている。コンピューター教室では、8人くらいの生徒がクラスを受けている。音楽教室では、4歳から15歳くらいまでの20人くらいの子どもたちがサイードの指導を受けている。ここで「しあわせ運べるように」のペルシャ語版を聞いた。この歌はもともと神戸の震災直後に神戸の小学校で生まれた歌で、子どもたちによって学校や仮設住宅で歌われ、多くの人々を励ました。この歌がペルシャ語に意訳され、イランのバムで地震を経験した子どもたちが歌っている。子どもたちが何回も繰り返しこの歌を歌うことで、子どもたちだけでなく、それを聞いている大人や地域の人々が元気になり、復興への足がかりになることを思ってやまない。ペルシャ語版の「しあわせ運べるように」は、亡くなった人の分もしあわせになろう、美しいバムがまたもとに戻りますようにというメッセージが込められている。
事務局スタッフ 飯塚明子
第8次イラン南東部バム地震支援 現地レポートvol.1
8月26日 イラン バム
飯塚、斉藤ともバムへ無事到着。AHKK(働く子どもを守る会)が運営をするチャイルドケアセンターへと到着した。翌日の朝から子どもたちの元気な声がコネックス(簡易仮設コンテナ)より聞こえてくる。今日は音楽クラスの日。午前中は最近入った新しい生徒や、小さな子たちを対象としたクラスが3回に分けて行われる。これまで音楽の授業は女の子が圧倒的に多かったが、今回新しい生徒には男の子が含まれていた。また顔の筋肉を使って歌うというような練習がされていた。そのためか数人の女の子でも大きな声で歌えるようになっていたことには驚かされた。今までの女の子はとにかく恥ずかしがり屋で、小さな口を少しだけ開けて声が聞こえるか聞こえないかというぐらいのところだったのが、今では大きな口を開けて歌える女の子が出てきている。訓練とはすごいものだと感じさせられた。新しい生徒の多くはこのセンターの近くに住んでいる子たちのようだ。
新しいスタッフの雇用があり、図書館司書と、コンピュータークラスの先生、女性支援のマネージャーが増えた。すべてバムの女性たちで、子どもたちも新しい先生を慕っているようだったので、今後のセンターの運営を担っていく人たちへの希望が見えてきたようで嬉しい光景だった。コンピュータークラスは女性支援の一つとしてCODEの支援で始められたものだが、子どもたちにも開放されてクラスが行われている。
バタニさんと話しをする中で新たな動きがテヘランのNGOを中心にあったことがわかった。APCLを含む13のテヘランのNGOや企業が集まって、防災・救助などのためのSHAHAB(Coordinating Council for Crisis Management)を作った。テヘラン事務所と、バム事務所を話し合いの中で設置をすることが提案されているが、13のNGOは現在話合って具体的にどのような活動をするかを議論中だという。バム地震をきっかけとして、それぞれのNGOが得意分野を出し合い運営していこうとするものでテヘランで近い将来起こると言われている大地震に対しての防災活動なども考えられ、今後の活躍が期待される。
午後からは初めてイランへ来たスタッフ飯塚を旧センター跡地や、これまでお世話になってきた教師夫妻のところへ案内をした。旧センター跡地へ行くと、そこにはまだ大型テントのコンクリート土台などがあり、多くの子どもたちのかけがえのない場であったセンターが懐かしく感じられた。残念ながら現在の新センターは土地が広いということと、土地の寄付をしていただけるということで保健省からの立ち退き指示が出されていた旧センターの場で活動を続けるのは困難になってしまったこともあり、移動せざるを得なかった。しかし、今日新センターのほうのコンピュータークラスに来ていた男の子が「ここは遠い、前のところに戻ってきてよ」と嘆いていた。旧センター跡地から歩いて教師夫妻のところへ行く途中には、よくセンターに遊びにきていた男の子たちと出会った。彼らもバタニさんを見つけると走ってよってきて、「今どのへんにいるの?」と聞いていた。やはりバタニさんも彼らを見ると彼らにも場所があればと考えるようだ。
事務局スタッフ 斉藤容子
今回、斉藤と一緒に初めてイランに来た飯塚の見たイラン報告です。
初めてイランに来る。イスラム圏の国に来るのは初めてなので、文化の違いにとても戸惑う。斉藤に言われたとおりに、イランに到着するまでに飛行機の中でコートを着てスカーフを頭に巻いた。女性はこれをしないとイランに入ることができない。私は慣れないので、頭に巻いたスカーフがつるっと落ちてしまったり、暑い中コートを着ているので、コートの中が蒸せて暑くなりくらくらしたり、慣れるのに時間がかかりそうだ。
首都のテヘランではさまざまな色やデザインのスカーフやコートを着ている女性が多い。コートとスカートの色を合わせたり、短めのコートを着ていたり。コートとスカートを着ることはイラン女性に義務づけられているが、そのルールの範囲内でできるおしゃれを楽しんでいるようだ。
2003年の12月に地震が起こったケルマン州のバムに来た。私自身海外の被災地に行くのはスリランカに次いで2度目。バムの被災地を見て驚いたことは、地震後1年と9ヶ月が過ぎたとは思えない町並みであること。外観は地震数ヶ月後と言われても信じてしまうだろう。ケルマン州のカリミ州知事は1月の国連防災世界会議に参加するために神戸に来たが、(10年が経っているとはいえ)外観は地震の形跡がまったく残っていない神戸の町を見てびっくりされたことだろう。バムでは、もちろん主要な学校や病院等は再建されているが、まだ全壊したままの家屋や再建されていない建物が多くあった。全壊したままになっている家はそこに住んでいる家族が全員亡くなってしまったのだろうか。多くの被災者は自分の元の土地にコネックスを置いて、それを仮の住宅にして住んでいる。バム地震の1年後である2004年にスマトラ沖で地震と大津波が発生してから、世間の目はイランのバムから離れつつあるが、バムの被災者にとっては復興という言葉はまだまだほど遠い。
事務局スタッフ 飯塚明子