ハイチ農業技術学校建設プロジェクトに新たな動きがありました。
農業技術学校(ETAL)の建設が、6月末より開始しました。校舎の完成は9月を予定しています。
校舎建設作業のようす
農業技術学校ETAL 看板
農業技術学校校長になるブローさん(右)と実習担当のジョセフさん(GEDDH)(左)
「ハイチ地震救援ニュース」カテゴリーアーカイブ
【2013年ハイチ訪問レポート No.4】
5月に代表の芹田と事務局長の吉椿がハイチ地震の被災地を訪れました。
引き続き、そのレポートをお送りします。
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■2013年ハイチ訪問レポート No.4
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「ハイチ?それはどこだ?」とニューヨークの空港職員に言われた。
ハイチを「裏庭」と呼ぶアメリカは、良質のコメなどハイチの食料の多くを自国に輸出させている。そしてアメリカによるプランテーションや大幅な関税引き下げがハイチの農業を崩壊へと導き、貧困に拍車をかけた。にもかかわらず、アメリカ人の多くがハイチという国の存在をあまり知らない。日本もまたしかりであるが、ハイチはまさに世界から「忘れられた国」なのである。そんな中、ハイチを襲った大地震は「史上最大の人道危機」と国連高官が語るほど甚大な被害を出した。地震が、ハイチという名を世界中に知らしめた。
3年を経た今、NGOや国際機関も徐々に現地を去りつつあるが、未だ36万人が496か所の避難キャンプで暮らしているように住宅問題は依然解消されないままである。また、昨年11月のハリケーン、サンディは、54名の命を奪い、1万8千戸の家屋に浸水、倒壊の被害を出した。農作物でもトウモロコシに42%、コメの30%がダメになったという報告もある。
▲援助機関によって建設されたシェルター
▲無数にある避難キャンプ
CODEのプロジェクトである農業技術学校(ETAL)は、シスター須藤が以前、農業大臣から譲り受けた土地に建設される。現在はGEDDHが、畑などを作って管理しているが、地震後、この土地にも住居を失ったたくさんの被災者が押し寄せてテントなどで住み始めたそうだ。そんな被災者を追い出す訳にもいかず、IOM(国際移住機関)の協力によって新しい住居を確保して去って行ったのがつい最近の事だとシスター須藤は言う。
▲農業技術学校建設予定地
ハイチでは全人口の10%の裕福な人々がハイチの全収入の68%を占め、土地の90%を所有しているという。多くの農民は小作農で、育てた作物は地主に安く買いたたかれ、農民は農業に対してやる気をなくしていく。そして仕事を求め、都会へ流入していく。こんなアンバランスと悪循環がハイチの貧困を助長している。ハイチを忘れられた国のままにしてはいけない。
(吉椿雅道)
【2013年ハイチ訪問レポート No.3】
CODE海外災害援助市民センターです。
5月に代表の芹田と事務局長の吉椿がハイチ地震の被災地を訪れました。
引き続き、そのレポートをお送りします。
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■2013年ハイチ訪問レポート No.3
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2010年1月12日のハイチ大地震の震源地にも近かったレオガン市は、首都ポルトープランスから西へ約29kmに位置する。超渋滞のポルトープランスの喧騒を抜け、車を40分ほど西に走らせるとレオガン市に到着する。3年を経た被災地レオガンでは、瓦礫はかなり撤去され、すでに新しい家も再建されているが、ところどころ倒壊したままの住宅や建設途中で放置されたままの住宅も目に入る。
現在、衛生状況の改善のためJICAによって下水道工事が町の中心部で行われている。だが、この時期、スコールのように激しい雨が降ると少し奥まった道はすぐに川のようになり、未だインフラ整備が不十分であることがうかがえる。
▲雨の後の道路
レオガン市街の少し手前の国道2号線沿いに広大な敷地に囲まれた施設が見えてくる。そこが「国立シグノ結核療養所」と「Cardinal Leger Hospital」という病院である。地震によって療養所の入院病棟のほとんどは倒壊し、そこで亡くなった方もいる。その後、助かった患者さんの多くも1年以上もテントでの療養生活を強いられたという。現在は、日本政府の協力によって療養所は新しく再建され、まもなく開所される。
▲再建された療養所
ここで37年間、結核治療を行ってきたのが、クリスト・ロア修道女会のシスターである須藤昭子さん(86歳、医師)である。シスター須藤の活動は、結核治療はもちろん、長い間ハイチで暮らす中で国民の4割が慢性的な栄養不足にある事が医療に影響していることに気づき、食を満たすための農業の必要性を訴えてきた。自らタイに出向いて「炭焼き」を学び、炭を焼く過程で出る木酢液や炭を利用した肥料や防虫剤などが農作物に有効だという事をハイチの人々に教えた。そんな活動の中からGEDDHという地元のグループが生まれた。彼らは、学んだ農業技術をレオガン周辺の農村の人々に教えたり、度重なる洪水によって奪われていく農地を植林によって守ろうとしている。GEDDHが、CODEの建設する農業技術学校(ETAL)の農業実習を担当し、一緒に土にまみれながら若者を育てていく。
▲土止めの為に植林された竹
(吉椿雅道)
【2013年ハイチ訪問レポート No.1】
5月に代表の芹田と事務局長の吉椿がハイチ地震の被災地を訪れました。
CODEは前回(2012年8月)の訪問時に、被災地レオガンで地元NGO「GEDDH」が計画してきた農業技術学校の建設支援を決定し、調整を進めてきました。今回は着工に向けて、最終の打合せを行ってきました。
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■2013年ハイチ訪問レポートNo.1
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2010年1月12日、西半球で最も貧しい国と言われるハイチ共和国を襲ったM7.0 の地震は約22万人の人々の命を奪い去り、同年10月には洪水によるコレラ感染が拡大し、2013年3月24日までに全土で8053人(UNOCHA調べ)がその犠牲となった。また、ハイチはハリケーンの常襲地帯でもあり、毎年のように被害が出ている。
ハイチ大地震から約3年5か月。ハイチの首都であるポルトープランス空港に着陸する直前、空から見下ろしたハイチの大地は赤茶けた土肌がむき出しになっていた。話には聞いていたが、本当に山には森林がほとんどなかった。ハイチの森林被覆率は、わずか1,25%という。2005年までの15年間だけでも11000ヘクタールの広大な森林が失われた。ハイチという言葉は、先住民の言葉(アラワク語)で、山多き土地という意味だそうだ。昔は、その名の通り国土が森に覆われ、ヨーロッパ人の入植前の1500年頃は国土の75%が森林だったという。フランス植民地時代の大規模プランテーションのために、そして独立後は、98%の森林は燃料用の木炭を得るために伐採されてきた。1993年の国連の経済封鎖よって燃料輸入が止まった事が伐採に拍車をかけた。木炭は、ハイチでの燃料需要の75%以上を占めるというほどだ。
ハリケーンでなくても、この時期、午後には必ずスコールのような大粒の激しい雨が降る。森林がなく保水力を失った山に降り注いだ雨は、土壌に浸透することなく一気に川へと流れ込み、川沿いの農村の田畑を侵食し、農地が減少していっている。
そんな状況を見かねたシスター須藤昭子さん(37年間ハイチに滞在し、結核などの医療活動に従事してきた86歳の日本人医師)は、地元のグループとNGO「GEDDH」を立ち上げ、植林、農業、炭焼きなどの活動を行っている。シスター須藤は、「せっかく病気が治っても食べられなければ意味がない。」と農業の必要性を語る。
1804年の独立前は、ハイチは「カリブ海の真珠」と呼ばれるほど沢山の農産物を輸出していたという。CODEは、そんなハイチの農業と森林の再生を目指したGEDDHの活動を若い世代に伝えるべくレオガン農業技術学校(ETAL)の建設支援を行う。ハイチの未来を担う若者の思いを乗せて、まもなく学校の建設が始まる。
(吉椿雅道)
【2012年ハイチ訪問レポートNo.7】
8月、代表の芹田とスタッフの岡本がハイチ地震の被災地を訪れました。
カウンターパートのACSISを通して支援した女性の暮らしを、いくつかのレポートに分けてご紹介していきます。
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■2012年ハイチ訪問レポートNo.7
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*ベルフォート・アンナさん(日用品販売)の話
今回お会いした女性の中で、ひときわ厳しい状況に置かれた方であった。
住宅地のなかに、突然開けた場所が現れる。地震で壊れた住居の骨組みが残ったところに、テント、ブルーシートなどで小屋をつくり3世帯ほどが暮らしている。ベルフォートさんは5人家族。娘3人と、1歳になるかならないかの孫である。テントの側には井戸があり、別の女性が水を汲み上げ洗濯の真っ最中であった。水は十分にありそうだったが、雨の少ない季節には干上がることもあるという。
ベルフォートさんは200ドルを借りて商売を始めたが、その後、困難な状況に陥ってしまった。当初、ドミニカとの国境の町マルパスに行き、様々な物資を仕入れて地元で掛売りをしていたが、病気になり続けられなくなってしまったのである。高血圧と呼吸器系の病気だという。話をする表情にも笑顔は無い。娘さんも働いていないとのことだった。「昨日ごはんは食べられましたか?」と聞いてみたが、愚問を鼻で笑うようにうつむき「ノン」と答えた。
テントの中を見せてもらうと、5人が寝るためのベッドとちょっとした棚でいっぱいである。電気を引いているようでテレビと携帯電話があった。昼時だったが食器類は片付けられたままで、野菜のかけらがテーブルに転がっていた。隣の小屋の女性が外でスープのようなものを炊いていたが、ここに住む10数人がシェアできる量ではなさそうだった。ここには、ベルフォートさんの孫のほかに乳児がもう二人、それに2~3歳くらいの男の子2人と5歳くらいの女の子がいた。ここにいる人たちどうしの支えあいや、近所とのかかわりなどを頼りに、何とか生活をつないでいるようであった。
彼女たちの状況は、街なかの活気ある露天商たちとはまた違う。家はなく、健康上の理由や子どもがいるといった理由で働ける状態にも無い。自力で生活を維持することが困難でも、最低限の保障も無い。最も貧しい人たちの厳しい現実をつきつけられた。ACSISとは引き続き、随時こうした人たちを見守っていただけるようにコンタクトを続けていきたい。
(岡本 千明)
【2012年ハイチ訪問レポートNo.6】
8月、代表の芹田とスタッフの岡本がハイチ地震の被災地を訪れました。
支援地の人々の声を、いくつかのレポートに分けてご紹介していきます。
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■2012年ハイチ訪問レポートNo.6
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*ゲリー・ディウリンさん(軽食販売)の話
夫と4歳の息子と暮らす自宅の近く、住宅地の細い路地の一角で、パンとオムレツを売っている。幅2m、奥行き1mほどの小屋である。近くにある学校の子どもたちが主なお客さんだと言うが、「いま学校が休みだからねえ」と、店先で横になって昼寝していた。学校があれば、ひとつ25グールド(50円)で日に30~40個を売り上げる。250ドルを借りて材料費などに当て、すべて返済した。私たちの訪問で起こされたからか少し気だるそうに、「店の調子はまあまあね。また借りられるならもっと仕入れたいけど」と言いながら、彼女に甘えてまとわりついてくる息子をあやしていた。売れ行きはまずまずのようだった。
「こういうローンが無いとき、お金を借りるような仕組みはあるの?」と聞くと、近隣で互助組合があることを聞いた。グループをつくり、その各メンバーから毎月少しずつお金を集め、その中の一人に順番に集まったお金を渡していくという、いわゆる回転型貯蓄信用講である。その月にお金がもらえた人にとっては、ボーナスが入ったようなものである。これを商売の開店資金にする人もいるだろうし、冠婚葬祭や子どもの学費に当てる人もいるだろう。しかし、当然であるが、毎月の拠出金が工面できない人は参加することができない。彼女も参加経験があるが、いまはやっていない。近くに住む別の女性にも聞いたが、拠出金が払えないからやっていないという答えだった。
また、小規模金融の例として、私的な業者が人々に5人組などのグループを作らせてお金を貸す消費者金融のようなものもあるという。しかし、健康状態の悪化などで生活の危機が往々にして起こりうるハイチでは、「連帯責任」よほどの信頼関係が無い限り敬遠されている。当初、ACSISのローンでもグループ形成の案があったが、住民はこうした事情からグループ制には反対したという。コミュニティには様々な互助機能があるが、日本で私たちも経験しているように、都市ではその役割が希薄になりつつあるようだった。
(岡本 千明)
【2012年ハイチ訪問レポート No.5】
8月、代表の芹田とスタッフの岡本がハイチ地震の被災地を訪れました。
支援地の人々の声を、いくつかのレポートに分けてご紹介していきます。
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■2012年ハイチ訪問レポートNo.5
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*マリー・アンジェ・ドゥソウさん(日用品売り)の話
この一帯はカナアンと呼ばれ、なだらかな山の麓にある。聖書にあるカナアンからとられたのだろうかと聞くと、ガードマンのウィルフリーさんはそうだと言った。山と言っても樹木はほとんどない。ハイチはもともと緑豊かな国であったが、圧制下の貧困を生き延びるため、人々は燃料や建材になる木を売るしかなかった。結果、山肌が見えるまでに荒れた土地はもはや保水力を失い、豪雨があるとたやすく崩れてしまう。
マリー・アンジェさんはこの地で、支援団体によって建てられた家に夫と妹と3人で住んでいる。広さは6畳一間ほどであり、奥にベッドを置き、手前は食事などのスペースにしている。壁と柱は木造、屋根はトタンである。雨に備えてだろう、30cmほどの高床にしてある。仕切られている敷地は広いが、水道は無く、したがってトイレ・風呂は無い。1ガロン(約3.8リットル)1グールド(2円)で業者から水を買って暮らしている。
カナアンにはもともと人は住んでおらず、何もない荒れ地だった。しかし、地震後に政府がキャンプからの立ち退きを推奨し、人々はこの地を開拓した。地面をならし、家を建てた。政府はこれを黙認した。ガイドのルシアンは、「地盤も、インフラの面でも、人の住めるような場所じゃないよ」という。他の集落からも遠く離れ、町としての機能を持たない寂しい土地だ。「乳と蜜の流れる地」と描写される「カナアン」とは皮肉な名前である。
山から取れる白く乾いた土が建築用ブロックの材料となるらしく、それを集めた小さな工場がところどころにある。それを除けば家とキオスクのような小屋だけが点在し、コミュニティと呼ぶにはあまりに閑散としている。マリー・アンジェさんによると、「近所の人とのかかわりはほとんどありません」。近所で子供たちがサッカーをすることがあるというので、まったく近隣の交流が無いわけではないが、暮らしを助けあったり悩みを話しあったりするような関係ではない。バプテスト系の支援団体が建てた教会――と書かれた小屋――が彼女の家の隣にあるが、それも寄り合いの場になることは無いのであろうか。
ガイドのルシアンが言うには、ハイチでも田舎に行くと、長年そこに住んでいる人たちのコミュニティがあり、そこでは結束のもとに暮らしが成り立っている。しかし、ポルトープランスのような都市に地方からやって来た人たちの集まるところでは、そのようなつながりの意識が無いことが多い。人々は、自分がその日生きるのに精一杯なのだという。
マリー・アンジェさんの場合、病気が暮らしの再建を阻んでいる。彼女は最初の融資200ドルで洗剤などの日用品の販売を行った。それはうまく行き、ローンを返済することができた。しかし、ふたたび200ドルの融資を受けて商売を行っていたところ、体調を崩し商売を辞めてしまった。消化管の病気で出血したという。「これから先のことはわかりません。体調はましになったけど、もう医療費は払えません。夫は不定期の日雇いで、安定した収入はありません。」
ここが仮暮らしとなるのか、あるいはここに根を下ろさざるを得ないのか、人々は見通しを持てず、その日を生きることにただ力を尽くしている。
(岡本 千明)
【2012年ハイチ訪問レポート No.4】
8月、代表の芹田とスタッフの岡本がハイチ地震の被災地を訪れました。
支援地の人々の声を、いくつかのレポートに分けてご紹介していきます。
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■2012年ハイチ訪問レポートNo.4
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*マキュレーさん(洋服売り)の話
マキュレーさんは、大きな道路の脇に台を設けて洋服を販売している。ここは住宅地というよりは、郊外を走る車用の道であり、街中と違って他に露店もほとんどない。こんなところで服が売れるのだろうかと思うが、「順調ですよ」と話す。
マキュレーさんは地震以前、ここから少し離れたリゾンという地域で比較的大きな店を経営していた。しかし地震で家と店が壊れ、この地に移ってきた。ACSISから借りた約275ドルは露店の仕入れなどに使った。売り上げは好調で、ルールどおり6ヶ月かけてすべて返済することができた。卸店で100~200枚のストックをまとめ
て買い(5000~7500グールド)、それを小売している。昨日の売り上げは24枚。1枚あたり約約100グールド(約200円)である。日によって売り上げは異なるが、今日は、このとき11時の時点で5枚の売り上げである。これで二人の子どもを養っている。
ちなみに、事前に聞いてはいたのだが、ハイチの人はおしゃれだ。女性は、鮮やかな色のシャツやワンピースがよく似合っている。黒でクールに決めている人もいる。袖や襟の形、フリルやストラップなどの装飾も様々である。男性はカジュアルなポロシャツやスポーツ風のTシャツなどが人気のようだ。こうしたおしゃれ好きな人たちが、通りすがりに服を買っていくのだろうか。
マキュレーさんはこう話した「ローンはとても役に立ちました。もしまた機会があれば、仕入れに使って店を大きくしたいです。」
(岡本 千明)
【2012年ハイチ訪問レポート No.3】
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■2012年ハイチ訪問レポートNo.3
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「ハイチで生きるのは高くつくんだ」とガイドのルシアンは言います。
収入と支出が見合わないのです。収入源が無いこと、そして収入が無いときのセイフティネットが無いことが、人々の暮らしを不安定にしています。地震で生活の基盤を失った人たちが「自立」していくためには、雇用と社会保障が必要です。
ハイチにおける雇用とは何でしょうか。それは、自営業(セルフ・エンプロイメント)です。認可を受けた店や企業などに雇われて働いているいわゆる正規の「従業員」は少なく、自ら道路わきの露店でものを売ったり、乗り合いタクシーを走らせたり、靴を磨いたりと、スモール・ビジネスで稼ぎを得ている人がほとんどです。これらは、大きな店舗や企業などのフォーマルな経済に対して、登録したり、営業許可があるわけではないインフォーマル経済と呼ばれています。インフォーマルではありますが、これがある意味ここの主流であり、人々の生活を支える重要な経済です。
CODEがカウンターパートのACSISを通して支援したのは、こうした自営業の女性たちの開店資金です。40人の女性を対象に150ドルから500ドルを融資し、2%の利子で6ヵ月後に返済します。この数字は、地元の現状を反映してACSISが設定したものです。
ACSISは女性たちを対象に説明会を開いて条件を理解してもらい、各人の希望額と商売の計画、家族の状況などをヒアリングした上で2011年2月に最初の融資を行いました。セミナーも開いて商売のポイントを勉強しました。半年から1年後、融資によって商売が軌道に乗り、その後融資を返済できた人もいれば、融資は返済したが商売は辞めてしまったり、あるいは商売が続かず融資も返済できなかったという人もいます。初回の回収額は7割程度でした。
失敗した人は、事業自体の不振というよりは、病気で辞めざるをえなかったり、家で他に大きな出費があって元手を失い、その後仕入れができなくなってしまったといったケースが多いようです。ぎりぎりの生活では、ひとたび危機が起こるとより困難な状況に転落してしまい、そこから立ち上がることができなくなってしまいます。そんなとき、本来であれば生活保護のような形で暮らしが保障されなければなりませんが、ハイチの人たちはその基本的な権利を守られているとは言えません。
今回、融資を利用した何人かの女性から話を聞くことができましたので、彼女たちの現状を紹介していきたいと思います。
(岡本 千明)
【2012年ハイチ訪問レポート No.2】
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■2012年ハイチ訪問レポートNo.2
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ハイチの物価は決して安くありません。露店のペットボトルのジュースは1本25グールド(50円)。屋台で昼食を食べれば一人100グールド(200円)、町の食堂に入れば200グールド(400円)。洗濯用にと思って露店で買ったバケツは1つ100グールド(200円)でした。路上で売っている音楽CDは――明らかにCD-ROMにコピーしただけのものですが――1枚100グールド(200円)です。40歳くらいの「ヒラ」の公務員の給与が月500ドルだそうですから、物価の高さがうかがえます。ちなみに富裕層しか利用できないような冷房の効いた大型スーパーマーケットに行けば、クッキー1パックが80グールド(160円)、500mlの水1ダースで170グールド(340円)です。最も貧しい人はどうやって生きているのか?混乱しますが、ハイチには、幾通りかの物価の世界があるようでした。震災後、外国からの援助流入による影響もあり、物価は安定しないようです。
一方、IOMが避難キャンプからの立ち退き支援費用(家賃補助)として1世帯に渡しているのは500ドル。これは、つつましく食べていくだけなら1年間はもつ額だといいます。しかし、生活とは食べていくだけのことではありません。栄養状態が悪いため、病気にかかりやすく医療費がかかります。子どもの教育費は、ハイチでは生活を圧迫する大きな出費です。そして最大の問題は、働きたくとも仕事が無いのです。
他の支援団体の話では、キャンプは明らかに少なくなったといいます。「ここもテントだらけだったんですよ」と指し示されたところは芝生の広場になっていました。「でも、キャンプを離れた人がどこに行ったのかはわかりません。」
「アビエーション・キャンプ」と呼ばれる避難キャンプの側を通ると、ちょうど2年前にCODEの野崎理事が撮ってきた写真と同じ風景が目の前に広がったため、すぐそこだとわかりました。そのままの同じ風景だったからです。テントは減っておらず、敷地を埋め尽くしていました。「キャンプにいれば、食事ももらえるし教育も受けられる。本当は出て行きたくない人も多いんです。」
(岡本 千明)