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【2012年ハイチ訪問レポート No.1】

CODE海外災害援助市民センターです。
代表の芹田とスタッフの岡本がハイチ地震の被災地を訪れました。
2011年3月にメキシコのパートナー、クワゥテモックさんがハイチを出たのを最後に、1年半ぶりの訪問となりました。日本からの訪問は2年ぶりで、これまでのプロジェクトの経過のヒアリングと、今後の新しいプロジェクトの打合せを行ってまいりました。
CODEは震災後に立ち上がった現地の住民団体「ACSIS」をカウンターパートとして、2011年1月から女性の起業支援のための小口融資事業を行ってきました。この融資を利用した人たちの声などを、いくつかのレポートに分けてご紹介していきます。
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■2012年ハイチ訪問レポートNo.1
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*地震から2年半の被災地
ハイチの日射しは、じりじりと肌が焼けるような熱さです。
首都ポルトープランスのダウンタウン中心部では瓦礫が既に片付けられている場所が多く、主要道路を車で走るだけではかなり復興したように見えます。一方、建物の9割が倒壊したと言われているレオガンでは、やはり瓦礫や更地が目につき、被害の大きさを物語っています。また、ハイチではほとんどの建物がブロック作りで、全壊を免れた建物も屋根や壁が部分的に崩れたままになっているのをよく見かけます。地震であれほど壊れたにもかかわらず、いま建てている建物もブロック作りです。一段積んではセメントを糊にし、また一段積み上げる――そうして2階建て、3階建てにします。木材がないことや、「ブロック作りの建物はステイタス」という感覚もあるようですが、もし再び同じ揺れが起きたらと懸念します。
街なかは多くの人が行き交い活気があります。2010年4月、村井事務局長が地震から3ヶ月後のハイチを歩き、「露天商のパワーがすごい!」と言いましたが、まったく同感で、隙間さえあれば店を構え、ありとあらゆるものが売られています。洋服、靴、家具、電化製品、食料、日用消耗品、食器、おもちゃ……。300mも歩けばデパートに行く必要はなさそうです。店番しているのはほぼ女性です。
大きなキャンプも残っており、家をなくした方々がテントやトタン、ブルーシートなどで作った小屋に住んでおられます。IOMによれば、575のキャンプに39万人が生活をしているといいます(8月28日)。ピーク時はテント生活者が150万人と言われましたが、キャンプを離れても、むしろキャンプ以下の貧困の暮らしから抜け出せないでいる人たちが少なくありません。こうした中、8月25日にもハリケーンが直撃しました。嵐の度にテントは水に浸かり、犠牲者が出ています。水害は感染症の原因ともなります。2010年10月頃から流行しているコレラは、最近少し収まりつつもこれまでに58万人以上が感染し、約7500人が亡くなっています(8月10日、OCHA)。
それでも確かに活気を感じるというのは、植民地時代、独裁政権時代、その後の弾圧の時代など、凄まじい権利の侵害と恐怖を生き延びてきた人たちの不屈の精神が受け継がれているように感じました。
(岡本 千明)

ハイチ地震レポート No.53

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◇◆◇ ハイチ 地震から1年 ◇◆◇
     ~CODEと被災地~
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2010年1月12日に起きたハイチ大地震から1年が経ちました。
しかし、いまでも80万人がテントでの生活を強いられているといいます。
CODEは地震直後からメキシコ人研究員のクワゥテモックさんを現地に派遣し、ラジオでのメッセージ発信、避難キャンプのコーディネート、孤児院支援を続けてきました。
また、2010年9月、今後の中長期的な支援を見据えた調査のため、野崎理事が現地を訪れました。9月の時点でも「未だに水・食料・医療・メンタルケアといった緊急支援が中心で、中長期を見据えた活動の展開を見つけるのが困難な状況」だったといいます。
そんな中でも、クワゥテモックさんが早くから連携し、関係構築してきた3つの団体は、将来に向けて被災者の支援を続けてきました。CODEは彼らとともに、ハイチの人々の暮らしの再建をサポートしていきます。
その3つのプロジェクトをご紹介させていただきます。
●Ayuda a Haiti 
ドミニカから最も早く現地入りしたNGOグループで、クワゥテモックさんも含め多くの小規模な国際NGOが参入しています。現地の主要なNGOともうまく連携し、レオガンを中心に「保健・医療」や「子供・女性」分野での支援活動を行っていました。被災者どうしが集い、ともに学ぶ場としてワークショップなどを開催しており、それに利用するコミュニティセンター建設の提案を受けています。建設地や費用などの詳細について、現在調整中です。
●GEDDH
レオガンに拠点をおいて、シスター須藤昭子さん(*)が農業支援を行うために設立
したNGOで、農業学校建設を計画していました。しかし、被災者が押し寄せ確保していた学校用地がテントで占拠されてしまい、中断となりました。彼らがこれまで行ってきた農業支援を、マイクロファイナンスという形でサポートすることについて調整中です。
*シスター須藤昭子さん……
1976年以来、ハイチで結核治療のために活動してこられた日本人医師
●ACSIS
首都の北側ラプレンという地域で活動しているNGOです。富田林在住のハイチ人青年シャシャ・ピエールマリさんが、友人で代表のルシアンさんら仲間と設立しました。
被災者(主に女性)が小規模事業を立ち上げるのに向けて、経営再建のプログラムを実施します。まずは50人の被災者を対象に、各300ドルを起業支援金として貸し付け、返済が終わればまた新たな人が借りられる仕組みです。
※ちなみに、UNDPのキャッシュ・フォー・ワーク(瓦礫の片付けなど労働の対価として現金を支給するプログラム)で支払われた日給は約4.5ドルです。
被災地では地震直後から、露天商が活発に商いをはじめていました。こうしたインフォーマルな経済が中心の商習慣を活かし、被災者どうしがノウハウを教え合うことにより、生計の再建を目指しています。
☆CODEのACSIS支援が神戸新聞に掲載されました
今後もご支援宜しくお願い致します。

ハイチ地震レポートNo.51

引き続き、CODEの野崎理事のハイチ調査レポートをご紹介します。
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9月4日(土)の午後は、ハイチ最大の非難キャンプDELMAS3を訪問しました。元はスポーツ公園だった場所に5万9000人がテントやバラックを建てています。ハイチ最大のスラムと言われたシテソレイユに隣接しており、MINUSTAH(国連ハイチ安定化ミッション)が近くに事務所を構えていましたが全壊し、スタッフも亡くなっています。
Harbyさんはそこに勤務していたのですが、そのままDELMAS3の支援をすることになりました。赤十字がともに支援に入っていますが、すでに殺人が5件、レイプがわかっているだけで数十件発生しているそうです。その理由は、近くにあった刑務所が倒壊して5,300人の囚人が逃亡し、800人しか捕まっておらず、その多くがここに潜んでいるからだそうです。また、シャワー施設が整っておらず、女性が囲いのないところでシャワーを使っていたり、夜になると暗くなってしまうなどが理由です。現在は、パトロールをしたり照明を数箇所設けるなど改善を図っています。
驚くべきことに、政府が公表している仮説住宅建設戸数は土地建物のオーナーだけを対象にしたもので首都住民の大半を占める借家人への対策は全く示されていないといいます。

ハイチ地震レポートNo.50

引き続き、CODEの野崎理事のハイチ調査レポートをご紹介します。
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到着して4日目(9月3日)の報告です。
クワゥテモックさんのアシスタントのソニーさんのことを少し触れておきたいと思います。彼は、21歳でドミニカ生まれのハイチ人です。母親について子供のころにハイチに帰ってきましたが、スペイン語とクレオール語だけでなくきちんとしたフランス語も勉強しています。責任感が強く、クワゥテモックのクレオール語をしっかり補って、訪問先への連絡や時間調整を秘書のようにこなしています。クワゥテモックさんがかわいがって育てている青年です。
ソニーさんと3人で朝食を済ませレオガンまで同行することになったアリシアさんというイタリア人の女性を乗せて出発しました。アリシアさんは、REIKIという日本発のメンタルケアの技術を持って被災者の支援をしたいとハイチにやってきたそうです。気巧のようなものらしいですが、日本でも聞いたことが無いというとショックを受けていました。
食事の後、ラファエルさんからAyuda a Haiti(クワゥテモックさんが2月から一緒に活動しているドミニカのNGO)の活動について説明を受けました。ラファエルさんは震災直後数日後にドミニカからポルトープランスに入り、まだ数少なかった国際NGOとレオガンに入りました。クワゥテモックさんも少し遅れてラファエルさんと合流しました。やがて次々到着するNGOで現在、レオガンで30~40団体が集まるネットワークとなっています。今後の計画で興味を引いたのは現在の拠点のなかに支援センターをつくる計画です。図面もできていてデータを送ってもらうよう頼みました。
我々がベースについたとき、あずまや(キオスク)で40人近くの若者たちが保健教育のワークショップをやっているところでした。主導しているのはMedical HaitiのDr.Chenetで若者たちはレオガン周辺のコミュニティリーダーたちだそうです。毎週金曜日朝8時に開催するこのワークショップには朝4時~5時に家を出て、歩いたりタプタプと呼ぶ乗り合いバスを乗り継いで参加しているとのことです。
ベースでは15歳以上の孤児たちが、いろんな役割を担って働いています。中にはJICAのIDカードを誇らしげに見せる子もいます。世の中の役に立っているという自覚が自立と回復につながっていくとみんな期待しています。
ベースを出て3つの孤児施設を訪問しました。最初はLittleAngelという施設で元の施設が崩壊したので新しい場所をみつけて再開しています。37人の孤児がおり増設した教室が未完成でした。ここは地域のコミュニティのなかにあり地域で親を失った子供たちも含まれていました。
次に訪れたのはHouse of Poor Childrenという施設で、工事中だった施設が壊れたため貸
主から退去を求められています。どこか土地をさがしてテントからスタートしなければならな
いとのことです。
3つ目は、名前を聞き漏らしましたが山の近くの草原にある施設です。到着が遅くなりあたりが暗くなっていましたが、子供たちが元気に迎えてくれました。たくさんの歌を聞かせてくれ、印象的だったのは、孤児のひとりが作ったラップソングでした。ここもテント暮らしで教室や宿舎が工事中という状態です。雨季の迫るなかで早く屋根のあるところに入れてあげたい
と思いました。

ハイチ地震レポートNo.49

引き続き、ハイチ地震復興支援に向けて現地で調査を行っている
CODEの野崎理事からの報告をご紹介します。
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●ラプレンにて
その後、ラプレンに向かいました。途中、空港近くでハイチ最大規模の避難キャンプの前を通りました。3万5000人がいるそうです。日本の仮設住宅の4,5倍くらいの密集度合いで、とても人が生活できるようには見えません。こんなところに8ヶ月近く暮らしているとは信じられない感じがします。
ラプレンは名前のとおり平坦な地域で碁盤の目状に道路が整備されていて、坂の多いポルトープランスとはかなり雰囲気が違います。そんなこともあって、他の地域から多くの被災者がやってきたようです。
面談してくれたメンバーは、「ACSIS」(※注)代表のルシアンさん(28)、副代表のエマニュエルさん(26)と会計担当のジョニーさんの3人でした。彼らがやってきたことは、直後のブルーシートの配布を除くと子供たちに学校へ行くための勉強かばんを配ったり、食事を配給したり、子供たちの支援が中心となっていました。今後は長期的な活動が必要と考えていて次のようなことを考えています。
1)子供や障害者・高齢者を支援するセンターを作りたい。
2)10月4日に学校が始まるが、子供たちにノートや筆記道具を配りたい。
3)孤児に食事を届ける事業を3月に始めたが継続に苦労している。続けたい。
その他の情報交換でわかったことは次のとおりです。
1)コンビットという互助組織はあるが、田舎でしか機能していない。
2)被災者キャンプは、どこも大きすぎて手がだせない。近隣のコミュニティを対象にニーズをみながらできることをやっていきたい。
●国連スタッフの話
夜にクワゥテモックさんの知人で、国連ハイチ安定化ミッションの人道セクションでレオガンを担当しているハービーさんと食事をしました。彼は今、健康と防災をテーマにした野外映画
の上映を各地のキャンプで実施しているとのことでした。またキャンプで頻発するレイプの防
止にも苦労しているようです。CODEへの期待は大きくて、是非連携してやれることを見つけたいと言っていました。
(※ACSIS:ハイチの被災者自身が立ち上げた支援団体。富田林在住のハイチ人、ピエールマリさんもそのメンバーの一人で、8月1日にCODEでACSISの活動紹介をして下さいました)

ハイチ地震レポートNo.48

ハイチ地震復興支援に向けた調査のため、8月31日より現地入りしている
CODEの野崎理事からの報告が届いておりますのでご紹介します。
CODEの海外研究員、クワゥテモックさんと共に調査を行っています。
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●ポルトープランスおよびレオガンにて
我々の宿泊したホテルの周辺は、もともと高級住宅街だったそうですが、公園に被災者のテントが密集しており、被災者と思われる人々が夜遅くまで周りを歩いていました。
道路状態の悪さと渋滞のため、ポルトープランスからレオガンまでは30キロしか離れていないのに3時間かかって到着しました。クワゥテモックの説明では90%以上の建物が倒壊したとのことでしたが、多くの人があてどもなく通りを歩いているのに町の姿が見えないという状態でした。その中でも古い木造の住宅が残っているのが目をひきました。トルコや中国と同じですね。
昼食後、Ayuda a Haiti(クワゥテモックさんが2月から一緒に活動しているドミニカのNGO)の拠点となっている被服工場跡にいき、孤児の支援をしているスペインのNGOと話をした後、農業学校設立を予定している地元NGO、JUDDHのJoseph Estalienさんと話をしました。
その後、2時間かけてポルトープランスにもどり、クワゥテモックさんの知り合いのNGOグループ(イタリア、ドイツ、ハンガリーなど)と意見交換を行いました。みんなこの国の子供たちのことを心配し、地元NGOが力をつけることの重要性では意見が一致しました。

ハイチ地震レポート No.47

地震後のハイチで、被災者どうしが助け合う姿を紹介する英文の記事を、CODE翻訳ボランティアのKさんが訳して下さいましたのでご紹介します。
地元の人達による支え合いについては以前にレポートNo.37やNo.39でもお伝えしましたが、
(http://haich-jishin.seesaa.net/archives/201003-1.html)
この記事もハイチの人々の温かい心について触れています。
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<ハイチ人どうしの助け合い>
日付:2010/7/12
情報源:Trocaire
(アイルランドカトリック教会の公式海外開発援助組織
 http://www.trocaire.org/)
1月の地震がハイチの国土を引き裂いた時、150万人の人々が家を失った。約90万人の多くの人々は首都のポルトープランスに留まって、利用可能な土地にあるキャンプでいまだに暮らしている。
しかし60万の人々は首都を離れた。地震直後に離れた人もいれば、路上やキャンプでの生活が耐えられなくなって数週間たってから動いた人もいる。6ヶ月たった今では、これらの人々の多くは国中に散らばったままになっている。
この緊急事態での顕著な特色は、ハイチの人々がお互いに労をいとわずに助け合うことである。60万人のほとんどはホストファミリーのところにいる。ホストファミリーの多くは被災者の親戚だが、驚くことに、そうではない場合も多い。困っている人を受け入れるというささやかな方法に対するホストファミリーの犠牲や善意は計り知れない。
Alexandre Victoirは地震から3週間たって生活がとても苦しくなったのでポルトープランスを去った。彼女の姉と姪は崩れた家の下になって亡くなり、お金も食べ物もなく、5人の子供達と一緒に瓦礫の間で眠り、隣人が分けてくれる食べ物なら何でも食べて暮らしていた。
「寝るところをどこか提供してくれる人が誰かいるからと、お隣さんのひとりが言ったのでFonds Parisienに来た。」と彼女は私達に言った。彼女の夫には町から二時間の郊外にあるその場所に遠い親戚がいた。そのいとこは自分自身が貧しさから抜け出せないでいるのに心から温かく彼らを歓迎してくれた。
Trocaireが訪ねた時、Alexandreは娘と一緒に庭の木陰に座っていた。「ここには私達が必要とするのに十分なだけの場所も食べ物もない。夜にはとてもくっついて寝なければならない。」と彼女は言った。Trocaireはこの地区で活動していて、住むところがなくなった人々や彼らを泊めている家族に食べ物を渡したり、子供達を学校にやったりしている。
Sr Nuria Merono Otoiは陽気な73歳のスペイン人である。彼女は水も電気もないコミュニティーに住んでいて、そこでTrocaireのパートナーの組織と一緒に働いている。地震の直後には、彼女は小さなチームを作り、ポルトープランスに車を出して基本的な初期援助を行った。「私達が持っていたすべては、多くの絆と助け合いの善意です。」と彼女は言った。
彼女はRicardo の話をした。彼は一人でポルトープランスの路上をさまよっているところを見つけられ、彼女達のところへ連れてこられた8歳の男の子だった。「地震が起きた時、Ricardoは外で遊んでいて家に帰ったら家族全員が亡くなっていたというのが、彼が話せたすべてだった。」と彼女は言った。
「私達は彼が住所や電話番号や親戚がどこに住んでいるか思い出すように繰り返し繰り返し手助けしようとした。でも彼はできなかった。」彼は私達と一緒に三ヶ月暮らした。そしてある日、彼は電話番号の一部を思い出した。その後数週間かけて少しずつ彼がもっと思い出すように私達は毎日彼をうながした。ほとんどの番号を思い出した時から私達は他の人たちにきいて回り始めた。
「ある朝、連携して仕事をしていた時、一人の女性がある電話番号に出たので私達は自分達のことを説明した。電話に出た女性はRicardoの兄の奥さんだった。私達が彼らを電話で互いに話させると、Ricardoはひどく興奮した。彼の兄は生きていたのだ。彼らはすぐFonds Parisienにやってきて、その日のうちに彼を連れて帰った。
Fonds Parisienはかなり貧しい地区でポルトープランスからあふれ出した人々を助けきれなかった。Trocaireはその地区のグループと一緒に活動して、ハイチと自分自身の生活の復興に貢献する職業を若者達が学ぶような訓練プログラムを立ち上げている。
この地震は大工やれんが職人、電気技師のようなたくさんの技術者の命を奪い、専門知識の断絶は多大なものとなる。若者を訓練することは、彼らが自力で身を立てることであり、町の外に避難している人々を助けることでもある。そこの超過密状態は大問題であり、生活の質は悪い。
Alexandre Victoirのような多くの人々にとって、町はけっして戻る気にさせるところではないだろう。「私は戻れない。姉と彼女の赤ちゃんはまだ瓦礫の下のままだ。今、私はずっとポルトープランスを憎らしく思っている。」と彼女は言った。
原文サイト:reliefweb.int

ハイチ地震レポート No.42

新聞で読まれた方もいらっしゃると思いますが、ハイチの復興支援におけるある取り組みをご紹介します。
4月27日の朝日新聞に、医療NGOのAMDA(岡山市)が、ハイチ国境に近いドミニカの街に義肢支援センターを立ち上げるという記事が掲載されました。
(関連ページ:http://mytown.asahi.com/hyogo/news.php?k_id=29000001004270001)
この施設のセンター長として赴任されるのは、義肢装具士の29歳の日本人男性です。この方はJICAの青年海外協力隊の隊員として、ドミニカで活動された経験があるそうです。ハイチ政府によると、この地震で手足を失った人は4000人と言われており、同センターでは今後2年間で300人に義肢を提供される予定です。手足を失った人々は、命を取りとめたことは幸いと思いながらも、精神的なショックを受け止めきれないことがあります。身体が不自由になりそれまでの仕事ができなくなるなど、生計にも影響を与えます。義肢には、そのような人々を精神的にも、身体的にもサポートする役割が期待されます。
さて、この取り組みでもう一つ期待されることは、現地の技術者の育成です。義肢作りの技術を現地のスタッフが習得すれば、これは職業訓練としてもたいへん意味のあることだと思います。2年のプロジェクトが終わった後も、彼らはその技術によって生計を立てられるでしょう。ハイチは震災の前から経済的な困難を抱えており、仕事が無い、失業者が多いという問題がありました。今後の復興、生活の再建という面に目を向けると、人々が生計を立てるための「仕事」は欠かせない課題です。義肢作りのように、被災地のニーズに被災者自身が対応していくなかで、それが職業能力の開発につながったり、さらに仕事の創出になれば、ハイチの復興にとって大きな力になるのではないでしょうか。
「仕事」のエピソードについては、CODEメキシコ人スタッフのクワゥテモックさんも、WFP(国連世界食糧計画)の「フード&キャッシュ・フォー・ワーク」の様子を伝えてくれました。緊急の食糧配布の段階から、仕事と食糧をからめて農業の復興やマーケットの活性化なども含めた長期的な支援を始めているようです。
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<クワゥテモックさんのメールより>
WFPはコミュニティ対象に、「フード&キャッシュ・フォー・ワーク」(労働の対価としての食糧と現金)というプログラムを行っています。コミュニティの人々は、井戸掘りや、洪水防止の溝掘りなど、そのコミュニティが必要とする作業を仕事として行うことができます。労働の対価として、60%は食糧で、40%は現金で受け取ります。
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CODEも、耐震のモデルシェルターの建設を通して現地の方々に技術を学んでもらい、また、そのシェルターを職業訓練施設として利用してもらうといったプロジェクトを考えています。
働くことの報酬はお金を得ることだけではありません。仕事を通して得られる生きがいや自信、自尊心については、被災者に限らず、私たちがふだん身近に感じていることでもあるでしょう。

ハイチ地震レポート No.41

CODEメキシコ人スタッフ、クワゥテモックさんは現在も被災地レオガン(Leogan)を拠点に活動しており、最近は周辺の孤児院への訪問を活発に行っています。地震で建物が倒壊してテントや簡易のシェルターで活動している孤児院も多く、安全な施設の再建が課題となっています。
クワゥテモックさんは訪問先の孤児院でニーズをヒアリングしたりお遊戯やゲームなどを行っていますが、直接ふれ合って遊ぶことで子どもが元気になっていっているようです。このような活動の内容をさらにふくらませ、子どもが楽しみながら学べる防災教育を広めていけるのではないかとも考えています。
彼からのレポートを抜粋してお伝えします。
写真は孤児院の様子を写したものです。
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●4月14日
グレシエ(Gressier)からプティ・ゴアーブ(Petit Goave)までの間(距離約40km)に26の孤児院があり、それらは皆重大なニーズを抱えています。いずれも地震で被害を受け、死者や負傷者が出たところもあります。そこに住んでいる子どもたちは、地震の前と後、二度の被害者だと言えます。
ハイチのような国では、人口(960万人)の約半数が18歳未満で、子どもは最も重要なグループです。貧困と困窮の状況を併せて考えると、孤児院の役割がより良く理解できるでしょう。孤児院は本当の孤児だけでなく社会的孤児、つまり両親がいるにもかかわらず、子どもを養うことができずに孤児院に捨てられた子どもも世話しているのです。だからこれほど多くの孤児院があり、重要な役割を担っているのです。
孤児院のいくつかは、色々な機関から大きなサポートを受けていますが、政府からの支援を受けているところはありません。孤児院が受けているサポートは全てNGOからのものです。
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●4月15日
昨日、私の友人がアラスカからハイチにやって来ました。彼は毎年メキシコに来て、私の活動団体の子どもたちと遊んでくれている人です。彼はジャグリングがうまく、これを子どもたちに教えて一緒に楽しんでいます。私は彼をレオガン(Leogan)の3つの孤児院に案内しました。もちろん彼はすぐに子どもたちと活動を始めました。
また、キャンプで子ども相手に活動している人達に向けてセミナーを始めました。心理教育的なツールをもっと使って、より良い活動ができるようになるためです。3日間行う予定で、これまでのところ、とてもうまくいっています。
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クワゥテモックさんが訪問している孤児院の詳しい情報については、今後も随時ご報告してまいります。

ハイチ地震レポート No.40

1月12日のハイチ地震発生から3ヶ月あまりが過ぎました。
120万人が避難生活を余儀なくされていると言われており、住宅支援は緊急の課題となっています。
震災後、各支援団体がシェルター建設を進めてきており、また、日本政府も9000戸のシェルター建設を予定しています。現在ハイチにいるCODEのクワゥテモックさんも参加している「シェルタークラスター」(被災地でシェルター関連の各支援機関が情報交換を行っている調整会議)のまとめでは、4月12日時点で緊急シェルター(Emergency Shelter)の普及率は96%となっており、数字だけ見ると比較的高いようにも感じられます。
※原文ページ(英語):http://www.reliefweb.int/rw/rwb.nsf/db900sid/LYLN-84GN4Q?OpenDocument&emid=EQ-2010-000009-HTI
一方、現地で活動している支援団体の報告によると、数万人規模の大きな避難民キャンプには頑丈なテントが配給されているものの、テントの行き届かない小さな避難民キャンプでは棒にぼろ布を掛けた粗末なテントに暮らしている人もいるそうです(4月21日の毎日新聞)。
ハイチでは、これから本格的な雨のシーズンが始まります。ぼろ布で作った仮の小屋では風雨をしのぐことはできず、ハリケーンが来ればひとたまりもありません。ハイチでは2008年のハリケーンで100名以上の死者が出ていることからも、地震や風雨への耐性を備えた住宅の建設が、新たな被害を出さないために重要となってくるでしょう。
さて、以前のレポートで家を失った50万人が首都郊外などに移住するというニュースに触れ、その移住先で住民どうしのすばらしい助け合いも生まれていることをお伝えしました。もともと住んでいた人々が移住してきた人々を受け入れ、家族のようなコミュニティを築いている場所があるのです(レポートNo.39)。また、テントや仮設住宅、上記のような移住とならんで「ホストファミリー」が、家を失った人への対策として重要な役割を担っているようです。親戚や友人ならともかく、それほど付き合いの深くない人や見知らぬ人だとすると、日本ではあまり想像できない手段ではないでしょうか。そんな支え合いの仕組みがハイチの被災地で生きています。