フィリピンの台風災害についてレポートをお送りしておりますが、アジアは非常に水害の多い地域です。6年前にバングラデシュ南西部を襲ったサイクロン・シドルも、死者4234人、被災者は約900万人、被災家屋(全半壊)151万棟以上という甚大な被害を出しました。
この災害に対して、CODEは以前から協力関係のあるバングラデシュ防災センター(BDPC)と協力し、壊れた孤児院の再建を支援しました。建物はサイクロンシェルターとしても使われています。
支援の対象となった孤児院は、ベンガル湾に接する2つの川に挟まれた地域にあります。コミュニティの人々が自力で建設し、寄付で運営してきたこの孤児院は、サイクロン・シドルにより大きな被害を受けましたが、公立校ではないため政府の支援を受けることができませんでした。BDPCがこの孤児院と出会ったことがきっかけで、災害から約2 年後の2009年7月、CODEの支援によって孤児院の再建が始まりました。
コミュニティの人々はとても意欲的でした。作業初日から、コミュニティ全員が自発的に参加しました。皆、孤児院を地域の財産と考えており、当事者意識と貢献意欲を持っていたからです。リキシャー(三輪車)引きや貸しボート屋は無償で資材を運ぶのを手伝い、石工は無償で建設を手伝いました。大仕事となる屋根の取り付けに関わった人たちの半分はボランティアです。資金面でもCODEの支援だけに頼らず、コミュニティ内で約450米ドルを調達しました。資材を提供した人もいます。こんな声も聞こえて来ました「これはただのレンガではないんだよ、ここにたくさんの愛がつまっているんだ!」。こうして作られた孤児院は、単に外から与えられたものではなく、「私たちの作ったものだ」と地域の人たちの自信となりました。
建物は硬い基礎の上に建てられ、強い構造を備えています。大きさは縦約15m、横約8m、高さ約3mです。屋根の厚さの基準は12.5~15cmですが、約23センチあるため、将来2階が必要になったときに増設が可能です。このような構造の建物はこの地域にはほとんどありません。ひとつひとつ丁寧に作られているため、業者に丸投げして手抜き工事をされるよりも数段長持ちするだろうとBDPCは見ています。サイクロンを避けることはできませんが、質にこだわったこの建物をシェルターとして活用できることから、安全のシンボルにもなっています。
2010年5月の完成後、孤児院では67人の生徒が学びはじめました。地元の人は子どもたちに食事を与えるなど、引き続きボランタリーな活動で運営が支えられています。やがてここを巣立ちゆく子どもたちも、将来この孤児院を支えてゆくことでしょう。
フィリピンにおいてもこのように、復興・防災の支援を通してコミュニティの人たちの自信や地域の財産になるような活動を考えてまいります。
(岡本千明)
月別アーカイブ: 2013年11月
No.12 ボル・デュズジェ地震(トルコ・1999年11月12日発生)
「魚の釣り方」
14年前(1999年)の今日、11月12日にトルコ北西部のデュズジェ市(イスタンブールから東へ約170km)を震源としたM7.2の地震(ボル・デュズジェ地震)が起きた。この地震で死者818名、負傷者約5000名の被害が出た。この4か月前の8月17日には死者17262名、負傷者43953名という甚大な被害を出したイズミット地震(コジャエリ地震)が発生している。この二つの地震災害を総称して「マルマラ地震」と呼んでいる。
8月のイズミット地震発生の翌日、KOBE では49の団体が加盟したトルコ北西部地震・緊急救援委員会(NGO KOBE/CODEの前身)が救援活動を開始した。デリンジェ市では、現地NGOを通じて、女性の集まるテントやサポートセンターの開設や子どもたちの遊び場のテント「愛と希望のテント」の開所などの支援が行われた。また、地域の拠点として「市民文化教育センター」(通称:草地文化センター)が震災後、初の公共工事として再建された。震災前、地域住民はこのセンターで地域の人々に祝福されて結婚式を行うという習慣があった。だからこそ何よりも先にこのセンターを再建したかったのだという。4か月後に発生したボル・デュズジェ地震では、救援委員会はイズミット地震支援と並行して、現地でつながったNGOを通じてデュズジェ市の第5テント村で越冬支援も行なった。
当時の報告書を読み返すと、「第5テント村には直接的な支援は何もしていない。むしろ住民代表にテント村の運営方法などのアドバイスをしているに過ぎない」、「暖かく見守り続け、何もしないことが、最大の支援になる。子ども達の自由な発想に基づいた活動に周辺の大人たちが学ばなければならない」(デリンジェ・愛と希望のテント)と書かれている。あるテント村のリーダーが、救援委員会のメンバーに対して「KOBEのNGOは、魚の釣り方は教えてくれたけど、餌はくれない。」と言ったという。何もしてくれないと非難しているの
かと思ったが、そうではなく、「それが本当の支援だ。後は自分たちでやれる。」という意味だったそうだ。
この「魚の釣り方」の話は支援活動の中でよく聞かれる言葉だが、同様のことわざは世界各地にある。起源は中国の老子の語った言葉、「授人以魚 不如授人以漁」が有力だそうだ。直訳すると「魚を与えることは、漁を教える事には及ばない」ということだが、「人に魚を与えれば一日で食べてしまうが、釣りを教えれば一生食べていける」という意味である。トルコの被災地でこの言葉が支援者からではなく、被災者(受援者)から発せられたことは非常に大切な事である。被災者が自らそう感じ、そう思ったという事は、自立への第一歩であろう。「自立」や「エンパワーメント」は、支援者との関係性の中から生まれてくるのだろう。14年前のトルコの二つの地震は、そんな事を教えてくれる。
(吉椿雅道)