2010年1月12日のハイチ地震から4年が経ちます。この地震で人口約1000万人の3分の1が被災し、犠牲者は約23万人にのぼりました。150万人以上が家を失い、今も約17万人の方が306ヶ所の避難キャンプでテント暮らしをしています。CODEは地震直後から支援を行ってきましたが、昨年(2013年)から新たに、レオガンという地域のNGO「GEDDH」(「ハイチの持続可能な発展のためのエコロジーグループ」)らが計画してきた農業技術学校の建設をサポートさせていただいています。昨年7月に着工し、今年の早い段階での完成を目指しています。
既に報告などで何度かご紹介しておりますが、GEDDHはハイチで医療活動を行っていた日本人医師・シスター須藤が育てた現地のグループで、レオガンを中心に全国300人規模のネットワークを持っています。今日は、GEDDHの活動を支えてきたもう一人の人物、カナダ・ケベック州在住のシルビオ・ブルジェさんのメッセージを紹介します。シルビオさんは森林工学者で、地元で環境にやさしい農業を実践しつつ、2006年から年1回ほどレオガンに赴いてGEDDHに農業技術を伝えています。
「ハイチでは森林破壊が深刻です。私は農家であるGEDDHのメンバーたちと一緒に山で苗床を育てることを通して、技術と環境問題を伝えてきました。これまでに周辺の10ヶ所以上の村が自分たちの苗床を育てるようになりました」山あいの村々はラバと徒歩でしか辿り着けないほどアクセスが悪いため、ほとんど外部の人が来ることは無いそうです。
それでもシルビオさんは、起伏の多いハイチでは山にこだわることが大事だと言います。「ハイチで行われている植林は、ほとんど平地でのことなのです。しかし私は、必ず山の植林が優先されるべきだと考えています。それはまず土壌浸食を防ぎ、保水力を回復するためです。土地が息を吹き返せば、都会で飢えに苦しんでいる農家が山に帰って作物を育てることができるようになります。農家が農業をすれば、都市にも食べ物を提供できるのです」
「最初竹を植えることから始めると、とても早く広範囲の森林を再生でき、素晴らしい成果が出ました。しかし農家たちの飢えを考えると、木の種類を変えざるを得ませんでした。そこで、アグロフォレストリー(樹木の植栽と農業を組み合わせること)に移行したのです。土壌の浸食を防ぐ強い根系をもち、なおかつ食べ物を生産できる木を植えるのです。成長が早くリンゴ状の実をつけるカシュー、根が強いマンゴー、そしてバナナ。栄養価が高く1年中豊富に実がなるパンノキも植えました」
ハイチの食糧危機は深刻で、現在60万人以上の人が厳しい食糧不足の状態に置かれています。5歳以下の子ども10万人が栄養不足で、特に2万人は重症の急性栄養失調に陥っています。
「このようにハイチの危機的な食糧問題に向き合うと、私たちは技術を教えるための農業学校を夢見るようになりました。GEDDHはこのプロジェクトの鍵です。GEDDHがレオガンの、そしてハイチの将来の問題を解決していくのです。ハイチのため、シスター須藤の夢のためにも、私にできることすべてをしたいと思います。私の夢は、子どもたちが元気に笑いながら道を走り回っている様子や、農業技術学校が生徒たちでいっぱいになっているのを見ることです」
GEDDHの夢、シスター須藤とシルビオさんの夢は、私たちの夢でもあります。
(岡本千明)
No.15 スマトラ島沖地震・津波(2004年12月26日発生)
先ほど、2003年のイラン・バム地震についてのレポートを流したばかりだが、翌年の同日にも大きな災害が起こっている。2004年12月26日、スマトラ島北東部沖で発生したマグニチュード9.0の地震により、大津波がインドネシア、スリランカ、タイなど13カ国を襲った。情報源によって変動があるが、22万人以上が亡くなったと言われている。この災害を受けてCODEは様々な活動を行ったが、代表的なものはスリランカにおける次のプロジェクトである。
・幼稚園・保育園再建
・防災「共育」(子どもたちによる防災マップづくりや防災ソングづくり)
・漁業組合支援(漁具の提供)
防災「共育」については、当時、スリランカ南部のマータラに2年間滞在したスタッフ浜田久紀がつぶさにレポートを書いているので、関心のある方は年末年始のお休みにでもぜひ読んでみていただきたい(http://code-sumarta.seesaa.net/)。
彼女は子どもと向き合う体験を通して、「教える」・「教わる」、「支える」・「支えられる」といった関係性が決して一方向的なものではなく互いに響きあうものだということを発信する。私たちはときに他者から学ぼうとする意識をシャットアウトしてはいないだろうか。特に、相手を無意識のうちに上から見ているときである。「そんなこと知ってるよ」「これが当然、常識だ」そんなカチコチな大人の頭に、子どもは新鮮な発想を教えてくれる。さらに、文化が違えば「当たり前」も違う。例えば、子どもたちの使うクレヨンが短くなったときに浜田が新しいものを取りに行こうとすると、子どもたちは布でクレヨンを伸ばして塗ってしまった。彼女ははっとする。「私はクレヨンを最後の一かけらまで使ったことはない」(2006年4月21日レポートNo.40 http://code-sumarta.seesaa.net/article/16845697.html)。
何でも既製品のある社会では鈍ってしまっている、ありあわせのもので工夫する力にはっとさせられてみてはいかがだろうか。スリランカの子どもたちのような問題解決力が、災害時にはもっとも大切なのではないだろうか。
もうひとつ印象的なエピソードを記すならば、漁師さんの話である。津波で漁業の道具を失った住民に対して、CODEは漁業組合を設立して一隻のボートを支援した。組合員はこの船を交代で使って漁をし、魚を売った収入の一部を組合にプールする。そのお金は組合のための漁具の購入などに当てられるという。支援機関の中には、各世帯に船を提供した団体もあったらしいが、CODEの支援について組合の代表はこう言ってくれた。「CODEは個人にではなく、この漁業組合というコミュニティに対してボートをくれた。たった1隻のボートだけれど、このようにコミュニティが協力して強くなれる方法は良かった。」小さな支援ではあったが、人々の分かち合いや協力の精神によってこれが活かされ、かつ、さらに人々の結びつきを強めるという、社会的背景と支援の相乗効果を象徴するような言葉であった。
ただ、CODEは最初からそのような効果を狙っていたわけではなく、偶然この漁師さんの言葉によって大切なことを学ばせていただいたわけである。CODEの理念である「学びあうこと」とは、相手を尊重する姿勢にほかならない。
(岡本千明)
No.14 イラン・バム地震(2003年12月26日発生)
10年前の今日、12月26日にイランの南東部のケルマン州バム市でM6.3の地震が発生し、約43200人(UNOCHA調べ)の命が犠牲となった。人口約12万人のバム市の3分の1の人の命が奪われたことになる。また、旧市街地の80%以上の建物が倒壊し、世界遺産の遺跡「アルゲ・バム」もほぼ全壊した。
CODEは、すぐに救援活動を開始し、現地へと向かった。当時のスタッフ、斉藤容子にバム地震を振り返ってもらった。
被災地に入った村井(当時)事務局長と斉藤は、夜になると被災者の人たちが焚火を囲み、お茶を飲んでいる輪の中に入れてもらった。火を見つめながら、時に語り、時に黙って過ごす被災者の姿に阪神・淡路大震災の被災地KOBEを重ねた。
その後、CODEは幼稚園の東屋の建設や日本災害救援ボランティアネットワーク(NVNAD)と子どもの支援を行っていた現地の支援団体AHKKと連携して大きなテントの提供を行った。体を動かす機会を失くした子どもたちは、体操や空手などの教室の場として、大人たちは結婚式や葬式の場として、テントがボロボロになるまでその後も地域の人たちに活用された。サイード先生の音楽教室もこのテントで始まり、KOBEで生まれた歌「幸せ運べるように」が、現地の文化にあったイランバージョンに生まれ変わった。
また、ボンガという土で出来たドーム型の伝統的な家屋で倒壊せずに残っていたものも見られ、倒壊している家屋の多くは、近代化の中で主流になってきた日干しレンガを積んだだけの組積造で、倒壊の際に出たレンガの粉塵によって多くの人が窒息死したと言われる。「建物が人を殺す」という現実からCODEは、「耐震」をイランの住民に伝えるためにシェイクテーブルテスト(振動台実験)のワークショップをN-SET(ネパールのNGO)や国連地域開発センター(UNCRD)、ピースウィンズ・ジャパン(PWJ)などと連携して行った。耐震を施した模型とそうでないものとを同時に揺らすとその差は歴然としていた。参加した子どもから大人までの約200名に耐震の重要性をわかりやすく伝えた。
CODEは現地住民で作られた委員会と話合いを重ねながら行ってきた。支援者(団体)はやり過ぎず、住民自身が考える場を提供する事が大切だと斉藤は振り返る。あれから10年、東日本大震災を経験した日本。支援の中で住民主体がどこまで実現されているのだろうか。
(吉椿雅道)
No.13 バングラデシュ・サイクロン・シドル(2007年11月15日発生)
フィリピンの台風災害についてレポートをお送りしておりますが、アジアは非常に水害の多い地域です。6年前にバングラデシュ南西部を襲ったサイクロン・シドルも、死者4234人、被災者は約900万人、被災家屋(全半壊)151万棟以上という甚大な被害を出しました。
この災害に対して、CODEは以前から協力関係のあるバングラデシュ防災センター(BDPC)と協力し、壊れた孤児院の再建を支援しました。建物はサイクロンシェルターとしても使われています。
支援の対象となった孤児院は、ベンガル湾に接する2つの川に挟まれた地域にあります。コミュニティの人々が自力で建設し、寄付で運営してきたこの孤児院は、サイクロン・シドルにより大きな被害を受けましたが、公立校ではないため政府の支援を受けることができませんでした。BDPCがこの孤児院と出会ったことがきっかけで、災害から約2 年後の2009年7月、CODEの支援によって孤児院の再建が始まりました。
コミュニティの人々はとても意欲的でした。作業初日から、コミュニティ全員が自発的に参加しました。皆、孤児院を地域の財産と考えており、当事者意識と貢献意欲を持っていたからです。リキシャー(三輪車)引きや貸しボート屋は無償で資材を運ぶのを手伝い、石工は無償で建設を手伝いました。大仕事となる屋根の取り付けに関わった人たちの半分はボランティアです。資金面でもCODEの支援だけに頼らず、コミュニティ内で約450米ドルを調達しました。資材を提供した人もいます。こんな声も聞こえて来ました「これはただのレンガではないんだよ、ここにたくさんの愛がつまっているんだ!」。こうして作られた孤児院は、単に外から与えられたものではなく、「私たちの作ったものだ」と地域の人たちの自信となりました。
建物は硬い基礎の上に建てられ、強い構造を備えています。大きさは縦約15m、横約8m、高さ約3mです。屋根の厚さの基準は12.5~15cmですが、約23センチあるため、将来2階が必要になったときに増設が可能です。このような構造の建物はこの地域にはほとんどありません。ひとつひとつ丁寧に作られているため、業者に丸投げして手抜き工事をされるよりも数段長持ちするだろうとBDPCは見ています。サイクロンを避けることはできませんが、質にこだわったこの建物をシェルターとして活用できることから、安全のシンボルにもなっています。
2010年5月の完成後、孤児院では67人の生徒が学びはじめました。地元の人は子どもたちに食事を与えるなど、引き続きボランタリーな活動で運営が支えられています。やがてここを巣立ちゆく子どもたちも、将来この孤児院を支えてゆくことでしょう。
フィリピンにおいてもこのように、復興・防災の支援を通してコミュニティの人たちの自信や地域の財産になるような活動を考えてまいります。
(岡本千明)
No.12 ボル・デュズジェ地震(トルコ・1999年11月12日発生)
「魚の釣り方」
14年前(1999年)の今日、11月12日にトルコ北西部のデュズジェ市(イスタンブールから東へ約170km)を震源としたM7.2の地震(ボル・デュズジェ地震)が起きた。この地震で死者818名、負傷者約5000名の被害が出た。この4か月前の8月17日には死者17262名、負傷者43953名という甚大な被害を出したイズミット地震(コジャエリ地震)が発生している。この二つの地震災害を総称して「マルマラ地震」と呼んでいる。
8月のイズミット地震発生の翌日、KOBE では49の団体が加盟したトルコ北西部地震・緊急救援委員会(NGO KOBE/CODEの前身)が救援活動を開始した。デリンジェ市では、現地NGOを通じて、女性の集まるテントやサポートセンターの開設や子どもたちの遊び場のテント「愛と希望のテント」の開所などの支援が行われた。また、地域の拠点として「市民文化教育センター」(通称:草地文化センター)が震災後、初の公共工事として再建された。震災前、地域住民はこのセンターで地域の人々に祝福されて結婚式を行うという習慣があった。だからこそ何よりも先にこのセンターを再建したかったのだという。4か月後に発生したボル・デュズジェ地震では、救援委員会はイズミット地震支援と並行して、現地でつながったNGOを通じてデュズジェ市の第5テント村で越冬支援も行なった。
当時の報告書を読み返すと、「第5テント村には直接的な支援は何もしていない。むしろ住民代表にテント村の運営方法などのアドバイスをしているに過ぎない」、「暖かく見守り続け、何もしないことが、最大の支援になる。子ども達の自由な発想に基づいた活動に周辺の大人たちが学ばなければならない」(デリンジェ・愛と希望のテント)と書かれている。あるテント村のリーダーが、救援委員会のメンバーに対して「KOBEのNGOは、魚の釣り方は教えてくれたけど、餌はくれない。」と言ったという。何もしてくれないと非難しているの
かと思ったが、そうではなく、「それが本当の支援だ。後は自分たちでやれる。」という意味だったそうだ。
この「魚の釣り方」の話は支援活動の中でよく聞かれる言葉だが、同様のことわざは世界各地にある。起源は中国の老子の語った言葉、「授人以魚 不如授人以漁」が有力だそうだ。直訳すると「魚を与えることは、漁を教える事には及ばない」ということだが、「人に魚を与えれば一日で食べてしまうが、釣りを教えれば一生食べていける」という意味である。トルコの被災地でこの言葉が支援者からではなく、被災者(受援者)から発せられたことは非常に大切な事である。被災者が自らそう感じ、そう思ったという事は、自立への第一歩であろう。「自立」や「エンパワーメント」は、支援者との関係性の中から生まれてくるのだろう。14年前のトルコの二つの地震は、そんな事を教えてくれる。
(吉椿雅道)
No.11 ホンジュラスハリケーン・ミッチ(1998年10月22日~11月9日発生)
1998年10月下旬、非常に大きなハリケーン・ミッチが中米諸国を襲いました。22日にカリブ海で発生したハリケーンは、カテゴリー5に拡大した後にホンジュラスに上陸し甚大な被害を発生させました。その後もグアテマラ、ニカラグア、コスタリカ、エルサルバドル、ベリーズ、メキシコ、アメリカ・フロリダ州で被害をもたらし、11月9日に消滅しました。このハリケーンによりホンジュラスで約14,600名、ニカラグアで約3,800名、その他の国も合わせると約19,000名もの方が亡くなりました。この災害に対し、日本からは初めての国際緊急援助による自衛隊派遣が行われました。
CODEは、ホンジュラスの中でも支援の手が少ない大西洋側地域で個人的にボランティアを行っていた、日本人語学留学生の金井さんをカウンターパートとして支援を開始しました。彼女を通じて建築資材の配布を行い、住民主体の住宅再建を行いました。
このホンジュラスへの支援はCODEにとっての一つの転換点となりました。当時の救援委員会は、支援を行う村の約200世帯全てを支援しようと考えました。しかし金井さんは、「自らの家の再建を少しでもしようという意志があること」、「他の家の再建にも協力すること」という2つのことを再建支援を行う条件として上げました。当時救援に携わった村井理事は、援助に条件を付けることに驚く一方で、これが自立支援ということなのだと感じたそうです。「援助はただ一方的に救援物資を提供したりするだけでは駄目。当事者たちの主体性を尊重しなければいけない。」という金井さんの考えは、翌99年のマルマラ海地震(トルコ)支援の際にも活かされ、被災地に住む住民の「自立」を支援するというCODEの現在のスタンスが生まれました。
また、発足から間もなくホンジュラスの金井さん、メキシコのクワゥテモックさんとつながり、中米を支援してきた事がCODEの災害支援がアジアという枠を飛び越えるきっかけとなりました。NGOは、国や地域の枠にとらわれず活動していかなければいけません。
ホンジュラスでは、金井さんをはじめとする人を通じた支援を行い、自立支援を学びました。CODEが現在行っている2013・9メキシコ暴風雨被災地への支援は、日本どころか海外でも報道がほとんどなく、支援が入っていないという状況です。しかし、CODEはクワゥテモックさんを通じることで、情報が少ないメキシコでの活動が可能となりました。18年間52回の支援を経て様々な経験や人とのつながりの積み重ねが、現在行っているメキシコの被災地への支援に活かされています。
(上野 智彦)
No.10 パキスタン北東部地震(2005年10月8日)
2005年の地震に関してお伝えする前に、パキスタンでつい先月24日にもバルチスタン州で発生したマグニチュード7.7の地震について触れておきます。10月5日の政府公式発表では376名が亡くなったと言われています。最大の被災地アワランでは9割以上の建物が壊れました。約18万5000人が食料品やシェルターを必要としていますが、インフラの乏しさや治安の悪さにより支援が難航しています。井戸などの水源も壊れ、人々は炎天下で飲み水さえ十分にない状態に置かれ、マラリアや下痢の発生も報告されています。パキスタン赤新月社やムスリム・ハンズといった団体によって物資配布や医療支援などが少しずつ行われています。
CODEが募金を開始した9月のメキシコ暴風雨災害でも同様ですが、災害時に特に大きな被害を受けるのは普段から脆弱な地域であり、大きな町からアクセスしにくいことや、情勢の不安定さによってさらに支援が滞ってしまいます。
さて、冒頭でお伝えしましたようにパキスタンでは8年前の2005年10月8日にもマグニチュード7.6の大きな地震がありました。北東部の山間地域を中心に7万3338人が亡くなり、被災者は500万人以上となりました。アフガニスタン、イランなどを含めこの地域では家をつくるのに日干しレンガを使っており、これが崩れて住宅の被
害も多数発生しました。
CODEは、地震発生直後はインド側の被災地であるジャンム・カシミール地方で活動したインドのNGO「SEEDS」、パキスタンのバラコットで活動した日本のNGO「日本国際ボランティアセンター」等と情報交換し、緊急支援を始めました。
その後はスタッフが現地入りしてマンセラ、バラコット、バタグラム、バーグなどを中心に調査を重ねるなか、山あいの被災地ムザファラバードでたくましく生きる女性たちに出会いました。農村や山間部に暮らすムスリム女性は、外出や社会的な活動は控えめであるように思われますが、この地域の女性たちのなかには働き手である夫や息子を亡くし、自らが大黒柱として暮らしを営もうとしている人たちがいました。
村井事務局長(当時)と一緒に30人ほどの女性たちから話を聞かせていただいたとき、阪神・淡路大震災の被災者がつくった「まけないぞう」をプレゼントしました。まけないぞうは、タオルをぞうの形に縫い合わせたもので、被災者の生きがい・仕事づくりとして被災地NGO恊働センターが始めました。現在、東日本大震災の被災地でもこの活動が拡がり、日々まけないぞうが生まれています。
まけないぞうを見たムザファラバードの女性たちは「私たちもこんな刺繍ができるのよ。これを売って暮らしの足しにしているの」と、美しく細やかなカシミール刺繍が施されたクッションカバーやベッドカバーを見せてくれました。私たちも作品と女性のパワーに魅せられ、周囲の女性たちから「私もやりたい」といった声が上がったことから、女性の職業訓練センターの建設が決まりました。完成後は、手芸の上手な方が先生として地域の方に教えています。
まけないぞうやこのセンターのように、地域の中で人が集い、何気ない話をしたり時間を共有する場は大切です。皆さんも、身近なところでちょっとしたおしゃべりをきっかけに深まる交流や情報交換が、日常の問題を解決するパワーになると実感されたことがあるかもしれません。
(岡本千明)
特別編 アメリカ同時多発テロ (2001年9月11日)
グランドゼロで想う
あの9・11から12年が経った。12年と言えば東洋では十干十二支や月日、方位のようにあらゆるものが一巡する刻の長さで節目でもある。
6月にハイチに行く際に、ニューヨークに立ち寄った。NYに来たらここだけは見ておかないとと思い、2001年9月11日に起きた同時多発テロのあった世界貿易センタービル(WTC)に向かった。
「グランドゼロ」と呼ばれるその場所は、テロによって崩落した世界の富の象徴であるWTCの跡地の事で、未だ再開発工事の最中で、周りを高い塀に囲まれている。長蛇の列に並び、数十ドルのドネーションを払った。すぐに厳重なセキュリティーを受け、工事の塀を抜けると広場に出る。そこには水の流れるプールが2つあった。これは、ツインタワーの北棟、南棟の地下の基礎のあった部分で、そのプールの周りに命を落とした犠牲者の人々の名前が刻まれている。どこかで黙祷を捧げようと思ったが、そのような事をする場所や人も見当たらず、プールに向かって一人合掌をした。
上を見上げると超高層の新しいタワーが建設されていて、12年前にこの上空に飛行機が突っ込んだと想像するだけで背筋がゾッとした。
広場には世界中の観光客が集っていて写真を撮ったり、座って語り合ったりするような何気ない日常の公園のような雰囲気だった。悲壮感はあまり感じず、唯一焼け残った1本の樹のみが何かを語っているようだった。
あれから12年を経てアメリカはシリアへと軍事介入をしようとしている。今回はさすがに議会や市民の承認を得られそうにもないが。
「グランドゼロ」という名は、元々、広島・長崎の原爆の爆心地を示していた。このテロによる惨状が広島・長崎を想起させることからこのWTC跡地もこの名で呼ばれるようになったという。原爆(HIROSHIMA/NAGASAKI)、テロ(WTC)、原発(FUKUSHIMA)が起きる根っこはどこかつながっている。
あの時、ここで起こった事実は何を物語っているのだろう、と思いながらNYを後にした。
(吉椿雅道)
No.8 ハリケーン・カトリーナ(2005年8月23日~31日発生、9月11日救援開始)
2005年の本日9月11日、CODEは「アメリカ南部ハリケーン・カトリーナ」に対する災害救援を始めました。
アメリカにおいて、未曾有の災害となったハリケーン・カトリーナは、日本でも大きなニュースとなりました。特にアメリカ・ルイジアナ州、ニューオーリンズは市街地の8割が水没し、その様子は大々的に報道されました。カトリーナの影響により当時45万5000人であったニューオーリンズの人口は現在36万9250人にまで落ち込んでいます。
CODEは2005年9月11日に救援活動を開始し、寄付などで集まったお金を全米災害救援ボランティア機構(NVOAD)とChristian Children’s Fund (CCF) に托し、CODEは救援活動を終了しました。
このカトリーナの被害の特徴は、黒人貧困層の被害が深刻であったということです。ニューオーリンズの移民の多くはアフリカ系アメリカ人であり、ハリケーン・カトリーナでは車を持たず、水のたまりやすい低地に住む黒人貧困層などの弱者が街に取り残され、大きな被害を受けました。彼らに対しての国や州の政府対応もずさんなものであり、避難所では食糧不足が発生し、一方衛生管理がなされない市街地では感染症が発生して避難所にも大きな影響を与えました。また、元々厳しい状態の黒人労働環境はさらに悪化し、ハリケーンを機に貧富の差が見直されるどころか、更に広がる結果となってしまいました。これらの政府対応の不備は後に強く批判され、当時のブッシュ政権の失墜を招くことになりました。
国や地域によって様々な人種や移民、障がい者、女性、子どもなど被害を受けやすく、支援が届きにくい弱者となる人たちが存在します。ハリケーン・カトリーナは特に多くの人々が弱者となったことで、このことがクローズアップされました。災害は人を選びませんが現実には災害は脆弱な貧困層を襲います。これはアメリカだけに限ったことではありません。日本では阪神・淡路大震災の折に弱者にあまり目が向けられず、後に「神戸宣言」において「希望の追求と怒りの声を高く上げよう。もっと被災の厳しい実情を声高に語ろう。外国人、高齢者、障がい者、女性、子どもを核に、人々のネットワークをつくり広げよう。」と「社会的弱者」声が届けられるように訴えました。本日9月11日で発生から2年半を迎えた東日本大震災の被災地では、順調に住宅再建や商売を再開する人がいる一方で、資金力の問題から家の再建が進まない人も多くいます。また文部科学省の発表によると、被災地の子どもたちの5人に1人が現在でも震災に関するストレスや「心の傷」を抱えています。阪神・淡路大震災、ハリケーン・カトリーナ、東日本大震災と何度も繰り返し社会的弱者が大きな被害を受け、復興から取り残されています。今後の防災、減災において、マニュアル的な避難方法などだけではなく、一人ひとりの状況に沿った対策を考えなければいけないことを改めて心に留めるべきなのだと思います。
(上野 智彦)
No.7 トルコ・マルマラ海地震(1999年8月17日)
1999年8月17日にトルコ北東部コジャエリ県イズミット市を中心に発生したM7.6のマルマラ海地震、そして3ヶ月後の11月12日、マルマラ海地震の被災地の東方で発生したM7.2のボル地震、2つの災害で、併せて死者18243名、重軽傷者48901名、全壊家屋93152戸という甚大な被害が発生しました。
昨年11月、当時トルコ北西部地震・緊急救援実行委員会委員長でもあったCODEの村井理事(昨年11月時点では事務局長)がJICAのプロジェクトで被災地を約10年ぶりに訪れました。
当時の救援委員会のメインプロジェクトであり2002年に完成した”草地文化センター”は、当初は市民教育センターとして使用されていましたが、現在、デリンジェ市民病院の精神医療部門となっており、日々患者への心のケアが行われています。
この10年間で続けられてきた活動も少なくありません。救援委員会がサカリア県アザパザリのトルコ・日本村仮設で女性の自立支援として進めていた小物作りや縫製作業を2、3人の方が現在も続けており、それを仕事としています。またマルマラ地震救援で連携していた地元NGO・CYDDは、被災者支援プロジェクトの発展型として実施された、女性の生活向上のためのマイクロファイナンスを現在まで継続して行っています。
これらの活動の中から一つの反省も生まれました。救援委員会が支援に入っていた上述のトルコ日本村・仮設は約1100戸もの仮設があったにもかかわらず、その後バラバラに移住し、コミュニティが崩れてしまいました。もし、継続する力を持った地元NGOと結び付き、継続的な支援を行うことができていれば、コミュニティの維持を支援することができたかもしれません。
災害NGOの活動において、発災から時が経つにつれて被災地とのつながりが薄くなることが多くあります。地元NGOの力量を見極め、長く密な関係を維持し、支援を行っていくことは災害NGOの今後の課題となります。
マルマラ海地震からの復興で市民の力が発揮された事例があります。トルコでは地震前は借家に住んでいた600世帯からなる一つの被災者連絡会が現在も存続し、活動しています。この被災者連絡会のメンバーは、長いトルコ政府との交渉により全世帯が持ち家(集合住宅)として供与されることになりました。「本来、家の所有権を持たない借家住まいの人々が国から家の保障をされることは世界でも類を見ない」と村井理事は述べています。
マルマラ海地震をきっかけに始まった支援や活動の中で、14年後の現在までこうして残っているものは少なくありません。上述の”草地文化センター”やNGO・CYDDの活動は災害支援から形を変えながらもその活動は現在まで続いています。災害が発生すれば、災害そのものや直後の被害にだけ目を向け、すぐに忘れられてしまうことが少なくありません。しかし災害の後には応急対応、復旧・復興、被害軽減などが現在まで積み重なっています。災害は一時で終わる出来事ではなく、復興や支援から好例や反省が生まれ、救援活動は別の活動として生まれ変わり、現在まで続くことがあると意識することが「災害を忘れない」中で大切なことなのだと思います。
(上野 智彦)